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カリフォルニア見たまま(8)
今度はここでの仕事ぶりについて書いてみたいと思います。
始めの頃に描いた駐在員の頃は、本社から子会社に派遣された者のいわば保証された身分での仕事であって、特殊なものだったと言えます。
しかし、駐在でなくなってからはこの国でアメリカ人と対等に仕事をすることになりました。
仕事口をどうして見つけたかについては、なんとこのあと働くことになった三つの会社すべては日本の母校のよしみでの入社だったのです。 アメリカへ来ても出身大学の世話になるとは思いもしませんでしたが、日本で兄が進学するなら他の大学ではダメだと言ったことをしみじみと思い浮かべることになりました。
最初の Harper Robinson という会社はアメリカの通関業者で、場所はサンフランシスコのダウンタウン。 駐在時代にこの会社の人がセールスで訪れたのですが、えらく話しが合い、ところで日本の大学はどちらという話しになり同じ大学と判明。 それからは親しくなり、後に私が仕事を探しているといったら、”俺の所で良かったら来てみないか” というので働き始めました。 仕事の内容は船による輸入通関業務。 元々私の専門なので仕事自体は問題なし。 しかし、英語の能力は限られているので職場では大変でした。 変な英語を言うのでアハハと笑われました。 そして英語自体が問題というよりここでの一般知識だとか地名とかを知らないことが問題でした。しかし、一方では日本からきた外国人だからと温かく接してくれる女性もいましたし、上司として手とり足とり指導してくれるマネジャーもいました。
ここでの仕事ぶりは部や課単位で行われ、日本の職場と似たような感じではありました。 チーフが係長でその上にマネジャーがいて毎日の仕事はチーフの指示に従って行い、マネジャーはチーフに大きな方向性を示す形を取っています。
下で働く我々レベルは個性豊かで仕事振りも一人ひとり違い、真面目でおとなしいのもいれば、一人でバンバンやるのもいればでこうるさいのもいて、日本より個人的に働いているという印象。 むろん、おどけたというか人を笑わせようとするひょうきん者もいる。 全体の雰囲気は楽しく、陰気な嫌なものは余り感じない。
夕方になると、ちょっと一杯行こうかということになり皆で町へ繰り出す。飲むニケーションはこの国にもある。 この会社を紹介してくれた彼ともよく飲みに行った。 そこで生ビールを飲みながら話したのは上司の悪口。 彼が言うのです、 ”これは万国共通ではないか、飲み屋へいって鬱憤を晴らすのは” それから、彼の話しで面白かったのは ”ここでバーで飲むというがそのバーはカウンターの下にある靴を載せる横棒のことでここに足を乗っけると落ち着くのだ。 そしてカウンターで飲むのは立っていられなくなったら酔ったことがすぐ分かるので座らないのだ” という。 本当に一杯だけ飲んで家路を急いだものです。
この会社にいた人を何人かを紹介してみましょう。 まず、副社長だったキューバ人。 副社長だけあって頭のキレるしかも我々と良く話してくれる素晴らしい人でした。 同じ外国人の一人として色々助言や励ましの言葉を貰いました。 キューバといえば革命後経済の停滞した国で、そこの人々は熱帯の遊び好きで勤勉とかいう言葉に縁のない人と思っていましたので意外でした。
二人目はイギリス人のマネジャーで日本の客に対して自分の名刺を投げるので、私を会社に紹介してくれた彼が困って、あれだけは絶対にしてくれるなと懇願していました。 物を人に投げるのはここではよくあることで彼は日本の名刺交換のやり方を知らないだけでしたが。そして、このイギリス人は性格的にも陰険で目つきも良くなく我々はあれがイギリス人というものなのか、と思ってしまいました。 彼とは親しくした訳ではないのですが一般的にイギリス人はお高くとまったようなところはあります。
3人目はもう一人のマネジャーですが、同性愛者でした。 実は私はこの頃そちらの方のことに疎く、全く気がついていなかったのを例の会社に紹介してくれた彼が教えてくれました。 あとでは分かるようになったのですが一定の顔つきをしています。 サンフランシスコはこの系統の人が多く、町のキャストロ地区という所に集まっています。 昼間から男性同士で手を繋いで歩いています。 いまでは日本でも認識されてきた様ですがこちらではだいぶ前から認められ、市長や市会議員で名乗り出る人が増えて年一回は大きなパレードもするようになっています。 仕事上はなかなかのマネジャーでした。 彼らに対しても表立って差別することは法律で禁止されており、あちこち仕事場でも出会うようになりました。
この会社の近くにチャイナタウンがあったのでランチタイムはほとんどそこへ行きました。軒並み レストランがあり、安くて美味い所をさがして ”Something over rice”, 即ちご飯の上に料理をぶっかけたものを食べていました。 ビーフかチキンかポークと野菜を炒めてオイスター・ソースを加えたものが代表的なものでした。 ヤムチャのレストランもありました。 料理をカートに載せて店内を回ってくるのはいいのですが、その店員が全く英語が話せないので一体何の料理か分からないことがありました。 そういえば、チャイナタウンではジャージャー麺もよく食べました。 これはザーサイ麺のことで豚のミンチとザーサイを入れて辛く仕上げた麺でここで美味しいものの一つです。 後には中国人経営のレストランですが日本人のマネジャーがいて、夜は二階で麻雀が出来るところもありました。
サンフランシスコは1776年からの古い港町で、大きくなったのはゴールドラッシュの1849年頃だそうです。 ここは坂の多い霧の町でケーブル・カーがその坂を登りゴールデンゲイト・ブリッジやフィッシャマンズ・ワーフがあり正しく絵になり詩(うた)になる市です。
つづく
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