関ヒマ様

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2016年11月22日(火)08時01分52秒
  お見舞いありがとうございます。こちらナントモありません。「つなみ!逃げて!」のテロップが貼り付けのママで不気味です。  

地震

 投稿者:関ヒマ  投稿日:2016年11月22日(火)06時39分35秒
  地震お見舞い申し上げます。  

地震

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2016年11月22日(火)06時19分1秒
  今朝5時59分東北関東で最大震度5弱、マグニチュード7.3「後で7.4に訂正された」の地震があった、いわき市などに津波警報が出た。「すぐ逃げて」のテロップが画面に張り付いている。  

朝刊の諧謔

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2016年11月22日(火)05時45分39秒
  『コウヤク』
刺激あり。すぐ剥がせる
       トランプ製薬。
 

朝刊の川柳

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2016年11月22日(火)05時21分12秒
  ①ドヤ顔ではしゃぐ首相の疎ましさ「信頼できる由。(トランプ氏を)」
②山口は冷えた料理になる予感」「安倍プーチン会談」
③歌へない~線路は続くよどこまでも「経営危機JR北海道」
 

覆水盆に返らず

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2016年11月21日(月)16時54分3秒
  「覆水 盆に返らず」
周の文王の名臣、太公望呂尚の故事による。呂尚は文王に会う前は非常に貧乏であり、妻の馬氏はがまんできず離婚したが、呂尚が出世すると復縁を求めてきた。このとき呂尚は盆に水を入れ地面にぶちまけると「ぶちまけられた水は盆には戻せない。(いったん離別した夫婦も復縁できない)」と言って聞かせた。南宋の『野客叢書』に記載されている.中国名言集11月21日の段。
 

女の城

 投稿者:関ヒマ  投稿日:2016年11月21日(月)14時27分48秒
  安部龍太郎氏の最新刊「女の城」を読みました。

3つの短編からなっていいて、いずれも戦国時代です。

1つ目は奥美濃の岩村城(別名霧ヶ城)を守る織田信長のおば珠子の物語。
(あらすじは省略)

2つ目は名門畠山氏の側室佐代の物語。
七尾城主畠山氏の勢いに陰りが出はじめ、世にいう畠山七人衆と呼ばれる七人の重臣が力を蓄えていた。中でも守護代家の遊佐氏、佐代の実家温井氏、穴水城主長氏が有力者で互いに権謀術数を駆使し政争と内乱を繰り返していた時代です。一方、外部からは上杉、織田が互いに勢力を伸ばそうとします。かような戦国の世をたくましく生きた佐代の物語です。途中、七尾出身の長谷川等伯が出て来たりします(安倍氏は久留米の出身ですが、長谷川等伯をテーマにした「等伯」で直木賞を受賞しています)。
「満月の城」と題したこの短編が一番気に入りました。

3つ目は「湖上の城」という題名にもあるとおり、浜名湖の近くの井伊谷の城主井伊家の女城主奈美『親族である虎松(後の井伊直正)の後見役』の物語です。
浜名湖周辺の遠江は甲斐の武田、尾張の織田、駿府の今川、三河の徳川の勢力がぶつかるところ。尼僧から女城主に担ぎ上げられた奈美も戦国時代に翻弄される女性です。
しかし、奈美は自分が正しいと思う道を生きた女性としてえがかれていました。
奈美は三方が原の戦で武田信玄に大敗を喫した、徳川家康の大人の風格を見抜き、家康に味方することに決め、後の井伊家の礎を築きます。
 

朝刊の俳壇

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2016年11月21日(月)05時00分9秒
  ①九十代五人ならんで日向ぼこ「めでたい高齢社会八十代は割って入れそうもない」
②菜の花や軍国日本に戻すなよ、「茶の花のいろどりに軍国日本の昔を思うか」
 

朝刊の歌壇

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2016年11月21日(月)04時50分38秒
  ①妻に詫び猫に媚びて生きていく私の中に私がいない。「素直に笑えて風逸」
②初めての選挙で知った事一つ投票用紙はえんぴつで書く。「18歳になってはじめて選挙権を得た作者の面白い発見」
 

太極拳

 投稿者:関ヒマ  投稿日:2016年11月20日(日)15時18分48秒
  来週から公園での練習の他に、小学校の体育館でも月2回練習することにしました。こちらの方は20数人集まりそうです。
来年はもう一歩足を踏み入れて行きたいと思っています。
 

朝刊の川柳

 投稿者:関ヒマ  投稿日:2016年11月20日(日)09時54分7秒
  操りの案山子が似合う稲田かな「防衛相」
良いのか悪いのかは知りませんが、稲田氏らしさがまるで出ていませんね。
他人事ながらこれではストレスがたまり続けるのでは?
 

朝刊の川柳

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2016年11月20日(日)09時41分6秒
  ①娘の糸で動くトランプ「親族で脇固め」
②操りの案山子が似合う稲田かな「防衛相」

11月19日の朝刊より。
 

 投稿者:関ヒマ  投稿日:2016年11月19日(土)15時22分59秒
  沼南ボーイ様
色んな捉え方があるかもしれませんね。
この本では腕は肩関節からではなくて、それと繋がっている肩甲骨からを腕と言っています。
肩甲骨を腕の付け根だと捉えるのは古武道などの世界では広く知られているそうです。
肩甲骨は中々動かしづらい骨で、ヨガなどでは肩甲骨を動かすような動作が沢山あります。
肩甲骨を動かすことによって、僧帽筋などが動き、肩こりなどが楽になるとされています。
 

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2016年11月19日(土)14時59分12秒
  関ヒマさんの投稿お読んで、我が身を振り返っていいるところです。
私は姿勢が悪く骨盤から上が右に傾き顔面も右傾化になりやすく、リハのとき理学療法士の先生からいうも注意され、矯正されてます。
腕の定義は次のようです。参考にしてください。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%95
 

腕は?脚は?

 投稿者:関ヒマ  投稿日:2016年11月19日(土)08時38分56秒
  私は周りの人から猫背といわれています。
猫背に限らず姿勢の悪い人は多いですね。
姿勢が悪いと、首こり、肩こり、腰痛の原因にもなります。
最近「猫背は治る!」小池義孝(一義流気功治療院院長)という本を見つけて早速読みました。
この本は初版が出てからもう5年になりますが、いまだに読まれているようですので、まだ読んでいない方のために(私はおさらいの意味で)本の概要だけ紹介します。

この本では猫背解消の他、呼吸、腕、足にもふれていますので、正しい姿勢の前にそちらからごく簡単に紹介します。
①呼吸 深い呼吸は吸う息より吐く息を長く。横隔膜を動かす。
②腕 質問 どこからを腕というでしょうか?
どこからが腕かを正しく認識し、そこから動かすようにする。
③脚 質問 どこからを脚というのでしょうか?
どこから脚かを正しく認識して歩けば、力強く、早く美しく歩くことが出来る。

ーー正しい姿勢ーー
従来、正しい姿勢とは胸を張って背筋を伸ばすこと。といわれてきましたが、著者は疑問視します。
猫背を治すため、上記の姿勢を心がけたとしても、また元に戻ってしまいます。これでは解消法になりません。

ではどうするか。

大腿骨で身体を支える→膝立ちをしてください(膝を折って立つ姿勢)
猫背になりません。(猫背の人は試してみてください)
上半身が太く逞しい大腿骨に乗っているので骨盤が安定します。
→膝で立つのと、足の裏で立つのとでは何が異なるのでしょうか。
→大腿骨は膝とは接していますが、足の裏からは遠く離れています。
→ではどうしたらよいか→大腿骨に乗るためにはスネの骨に乗らなければなりませんが、スネの骨は2本あり内側の太いほうの骨に乗ります→ではどうすれば乗れるか→足の裏の土踏まずのところに体重を乗せて、少し内側に絞るようなイメージで立ってください。この時に、スネの太い骨に乗る意識を強く持ってください→次は全身の力を抜きます、そして、自分の背筋を意識してください→スッと楽に自然に伸びていれば成功です。

これが良い姿勢です。

猫背になる本当の原因は。
正しく骨に乗れていないからです。
猫背になるときの重心は、正しい位置よりもつま先側に寄っています。

では、正しく座るには。
骨盤には坐骨という骨があります。
坐骨の位置をしっかりイメージして、綺麗に乗ってください→お尻の骨を感じながら、微調整してください→一番安定する位置を見つけたら、全身の力を抜きます。背筋がスッと楽に伸びていれば成功です。
 

朝刊の川柳

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2016年11月19日(土)07時21分30秒
  ①まず確認あなた狸でぼく狐「安倍、トランプ会談」
②冷めかけたことぶり返す暮れの賞「ゲス不倫とか、関係者お気の毒
③うらを見せおもてを見せて大統領「良寛のもじり」本歌は「うらを見せおもてを見せて散る紅葉」
 

朝刊の諧謔

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2016年11月18日(金)06時05分41秒
  ①「女子学生に家賃補助」 ルームシェアしたい。―-東大男子学生・  

朝刊の川柳

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2016年11月18日(金)06時01分22秒
  ①老原発、見よ高齢者事故多発。「美浜も認可」

②御し易い首脳が先と安倍に会い、「そうなの」
③生活費さえ厳しい人考えよ。「政治活動費前払い9割超」
 

作品集掲載

 投稿者:ひまじん  投稿日:2016年11月17日(木)20時15分18秒
  Steve Todaさんの“California as I saw ”「カリフォルニア見たまま(15)」を作品集のエッセイのジャンルに
掲載させていただきました。

     謝々。
 

中国名言集より、

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2016年11月17日(木)15時12分48秒
  「虎を画いて狗(イヌ)に類す」
「虎を画いて完成せず、逆に犬に似てしまう事」の意味。
後漢の馬援の兄の二人の息子が当時の豪傑杜季良の真似をするのを心配して「季良に倣いて得ざれば軽薄子となる。」と言い、ついでに先の比喩を用いて諭した。後世素質の無い者が豪傑の真似をして軽薄になってしまう喩えとして広く用いられる。
 

マイカー

 投稿者:トト  投稿日:2016年11月17日(木)08時00分24秒
  昨年でしたか、長年使っていたマイカーを廃止しました。ゴルフを止めたら必要がなくなったのです。東京は地下鉄網があって、大体都区内では10分ぐらいの歩行で、何らかの駅に行けるということになっています。

私のうちからも地下鉄が2線路あり、3つの駅があります。それに都営の地下鉄・バスは安価なパスが用意されており、利用している人も多いようです。

最近、高齢者の自動車運転による事故が大きく取り上げられており、問題になっています。将来、郊外に転居したらどうなるか心配です。

大昔、ドライビング・ミス・ディジ―という高齢の御婦人が運転ミスを起こす映画があり、たしか黒人名優のモーガン・フリーマン(私の好きな俳優です)が運転手に雇われるという物語がありました。アメリかではずいぶん昔から高齢者の運転の問題が意識されているように感じました。

しかし、サンフランシスコは、優雅ですねえ。
 

California as I saw

 投稿者:Steve Todaメール  投稿日:2016年11月17日(木)06時28分21秒
  関ヒマさんへ

カリフォルニア見たままへのコメントに対して。

都市によって交通システムは大いに異なります。 サンフランシスコはケーブルカーという特殊なものが存在します。 それは坂が多くて普通の路面電車では登れないので地下に設置したケーブルを巨大な輪でぐるぐる回しそのケーブルに電車を引っ掛けて急な坂を登るという大変なケーブルカー・システムを考え付き、街の名物になりました。 また、サンフランシスコには普通の路面電車やトロリーバスという電気で走るバスシステムもあり、通常のバスも走っています。

ニューヨークは東京に似ていて地下鉄網が張り巡らされています。 一方、イエローキャブと呼ばれる黄色いタクシーが山程走っていて重要な交通手段になっています。

かく、アメリカの都市は色々違った街で画一的ではありません。 元々、この国は合衆国で違った州の集まったものですから、他の州の他の街の交通システムは違ったものだと思います。
 

朝刊の川柳

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2016年11月17日(木)06時02分12秒
  ①何となく気が合いそうなに見え怖し。「トランプ安倍会談」
②お気持ちを識者ああじゃないおうじゃない。「天皇退位をめぐり」
③女子来ない理由を東大勘違い。「来春から女子学生へ家賃補助」
 

カリフォルニア見たまま(15)

 投稿者:関ヒマ  投稿日:2016年11月16日(水)17時33分28秒
  スティーブさんのカリフォルニアの話、いつも興味を持ってみています。
同じカリフォルニアでもロスアンゼルスとサンフランシスコとでは交通に対する認識が違うし、また、画一的ではないんですね。
日本の場合は東京を頂点にインフラ整備は似たようなものですし、特徴のないものとなっています。
このような現象は多分、明治以降の中央集権国家のためではないかと、勝手に思っています。
 

加州みたまま15

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2016年11月16日(水)10時58分54秒
  戸田様の
「車社会」のことを述べた文章、一気に読みました。意地悪と思える試験管のお話や「仕事のために車が必要」というと柔軟に対応してくれるというお話、さすがに米国は違うなと思いました。日本では異なる面がありますね。いつも熱心に読んでいます。
 

California as I saw

 投稿者:Steve Todaメール  投稿日:2016年11月16日(水)07時06分18秒
  カリフォルニア見たまま(15)


ここへ来た当初日本と違うと感じたことの一つはアメリカは車社会だということです。 今では日本も東京以外はかなりの車社会になってきていますので、今日現在では日本と違うとは言えないようになってきたのかもしれませんが。

ともかく、ここは交通システムは自動車中心という設計がなされていて、車なしでは生きていくのが難しいと言っても過言ではありません。 現在でも大部分の人は車で通勤し、車で買い物に行き、車で病院にも行き、近距離の旅行も車を使います。

そして、この車社会の典型がロスアンジェルスです。 私の住みたくないアメリカの町の一つですが、その理由は交通手段が車しかなくフリーウェイがいつも渋滞しているからです。 一度娘が在学中に、UC ロスアンジェルスに週末でない日に行ったら最後の1マイルを走るのに30分もかかり、怒り心頭。もう絶対に週末以外にはロスアンジェルスには車で行かないと決めました。 ロスアンジェルスは6~7レーンもある広いフリーウェイ一杯にびっしり車が走っていてそれがいつも渋滞です。 そこでフリーウェイの上にさらに道を作ってコミュター・レーンという2人以上乗っている車専用レーンにしたのですがこれも事故が起こればたちまち渋滞。

人口が恐ろしい程に増え、それにつれて車が増えて道路がパンクしてしまったのです。 そして、それは鉄道を作らなかったことが原因のひとつと言われています。 その鉄道を作らなかったのは、何と自動車会社と石油会社が妨害したためと言われています。 これらの会社はご存知の通り、アメリカのトップ企業であり、鉄道を作れば自分の売り上げが減るのでそれを阻止したのです。 しかし、結果として市の機能が一部麻痺するほどの問題となってきてあわてて路面電車を作ったりし始めましたが手遅れ状態です。

その点、サンフランシスコは賢明にも40年前に地下鉄を作り、道路の渋滞はロスとは比較にならないくらい少ない状態です。

我々の住んでいるあたりも交通手段は車によるものとして設計されているので、自動車なしで生活するのは困難です。 地下鉄があるので時折使うようになりましたが、駅までは車で行って駅の駐車場にとめることになります。 その駅までのバスもできましたが、1時間に1本で使ったことはありません。 要するに、システムとして車中心に作られているのです。

従って、我々も毎日車に乗って買い物に行ったり医者のところに行ったりボーリングに行ったりします。 我が家には車が2台、トヨタとホンダです。  ここへ来た頃は日本車はほとんどありませんでしたからアメ車でシボレーが最初の車でした。 その後数えたら10台の車に乗りました。 3台目位までがアメ車でそのあと日本車になりました。

ここでは16歳で運転免許が取れるので高校生は車で学校に行く子もいます。 我が家ではスクールバスで通学しましたのでそれはありませんでしたが息子は16歳で免許を取り中古ですが車を与えました。 娘も車を持っていましたので家族4人で4台の車がありました。 一時は古い車をしばらくおいていたので5台の車を持っていたこともあります。

最初の頃ここで走っていた日本車はダットサンの240Z、即ちフェアーレデイーZだけでした。 その後、トヨタが走り出しマツダやニッサン、スバル、三菱、ダイハツも加わって現在このあたりでは40%位が日本車のような気がします。 これは最初にここに来た時から思えば信じられないことです。 アメリカはヘンリー・フォードがアッセンブリー・ラインでの大量生産を始めてから長年車を作り続けてきた歴史と技術があり、50年前の自動車の品質は日本のものとは大きな差があったのが今や逆転して日本車の方が優れているという評判になっています。

車で思い出すのはここへ来てすぐに運転免許を取った時のこと。まず、筆記試験を受けて合格すれば実技試験となります。 筆記試験は◯X(まるばつ)方式ですが質問の数が多いのと文章が英語でそれも引っ掛ける様な書き方をしているのでかなり難しいものでした。ただ、会社の駐在員が過去の試験問題のコピーを持っていて、それを勉強したあとで受けたので合格でした。 次の実技は自分で車を持っていって、それに試験官が乗り込んで町を走るものです。自分では運転してもっていけませんから他の人に運転してもらって行きました。

日本で何年か運転していましたので簡単に受かると思っていたら落とされました。 それも、運転技術で落とされたのではなく言葉のことで落とされました。 通りを走ったあと住宅地に入って試験官が車の方向を反対にかえなさいといったのです。 私にはどうするのか理解出来なかったのでどういう意味でしょうかと聞いたら、同じく車の方向を反対にかえなさいと繰り返すのです。 しかたなく、これは U ターンしろといっているのかなあと思い、U ターンしましたが向こうはもういい、スタート地点に戻れと言い、試験には落ちたと言うのです。 要するに、この試験官はなぜか U ターンという言葉は使わないのです。 で、私は車の方向をかえるという言葉を理解出来なく試験官の指示に従えなかったという理由で試験に通らなかったようです。ただし、車を降りようとしたら、試験官はあなたは仕事で車を運転するのかと聞くのでもちろんというと、では運転許可証をあげるから運転はして良いがもう一度実地試験を受けて免許証を貰うようにと言うのです。

数日後の再試験では全く問題なくパス。  あとできいたら、実地試験を受けた所には一人意地の悪い試験官がいて時々人を落とすそうな。 その意地悪試験官にあたったものの様です。 ただ、ここらしいのは免許を持っていないと仕事も生活も出来ないので運転許可証はすぐにくれるということです。車社会であることの一端を示しています。

ここでは運転を習うのは高校で自動車運転のクラスがありますし、免許を持った親が隣に座って街の道で教えることが許されていますし、ドライビング・スクールで習うこともできます。これは日本の教習所とは異なり、スチューデント・ドライバーと書かれた車を使い、指導員が運転者の隣に座り街中をいきなり運転させます。

今は充電して走る電気自動車が増えてきたこととこれからは自動運転になるというのがもっぱらの話題になっています。 ともかく、ここは全くの車社会です。

つづく
 

朝刊の川柳

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2016年11月16日(水)06時42分55秒
  ①強硬に強行採決否定する「首相」
②大関が順送りに見る綱の夢。 「琴奨菊」、「稀勢の里」「豪栄道」。
③壁はもう三分の一あったんだ。「メキシコと米との国境の壁、すでに現存」
 

トト様へ

 投稿者:関ヒマ  投稿日:2016年11月15日(火)17時25分26秒
  旅行記を読んで頂き、また、感想を述べていただき有難うございました。

新しい(?)赤松小学校側の南の御堀端を通ってみました。
南西のお堀には仰る通りレンコンが繁茂していました。
蓮の花が咲くころは綺麗でしょうね。

南東のお堀(こちらの方が馴染み深いです)は昔、菱が水面を埋め尽くしていて雷魚がプカプカ浮かんでいましたが、今は水草は生えていませんでした。
 

渡部昇一氏

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2016年11月15日(火)16時24分18秒
   天皇陛下についての有識者会議での渡部氏の主張の報道記事を読んだ。渡部氏の歴史評論など一時期随分読んだ、当時の論旨は大部分忘れたがかなり過激で、ユニークだったように思う、今回の有識者会議での主張は「今上天皇は皇太子を摂政にし、「国」と「国民」のために祈りを続行してもらう事だ」
と述べている。骨折されたのか三角巾みたいなもので腕を吊っておられた。
 

関ヒマさんへ

 投稿者:トト  投稿日:2016年11月15日(火)16時13分46秒
  素晴しい旅行記でしたねえ。
確かに帰るたびに佐賀は町並みが代わっていきます。

しかし、比較的、御堀端の南や西側は私達の頃の住宅の様子が残っているようです。
とくに、私の実家の北側、アメリカにおられる戸田さんの家のあたりや、その西側などは、昔ながらの竹の生垣や多布施川の支流が其のままです。

私は、帰省すると好んで、大昔に赤松小学校や城南中学に通った道を散歩します。ゆらゆらと飛ぶイトトンボや流れに泳ぐハヤや小鮒は、むしろ昔よりは多くなったような気さえします。

一時、御濠のレンコンが絶滅していましたが、復活したようです。
 

沼南ボーイさまへ

 投稿者:関ヒマ  投稿日:2016年11月15日(火)07時12分53秒
  拙文を最後まで読んでいただき、また感想をお寄せいただき、有り難うございました。
実はこの旅行記、思わぬ反響に驚いています。
特に写真がよく撮れていたようで喜んでいます。

 

朝刊の川柳

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2016年11月15日(火)06時48分51秒
  ①役者じゃのう、、、当選以後のトランプ氏、「二枚舌」
②韓国民怒りだしたら北静か「青瓦台炎上」
 

肥前。筑後の旅

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2016年11月15日(火)06時01分44秒
  ふるさとのことを改めて考えさせられました。人そぞれの心のなかにそれぞれのふるさとがあるような気がします。長い旅ご苦労様でした。美しい写真もありがとうございました・。  

旅を終えて

 投稿者:関ヒマ  投稿日:2016年11月14日(月)13時09分27秒
  皆さんは故郷にたいしてそれぞれに思いや考えをお持ちだと思います。
私は今回佐賀を旅して、私なりに「故郷」の意味を考えてみました。

佐賀に限らず町は変貌しています。
特にふるさと佐賀市は変貌著しく、まるで別の町に来たみたいな印象でした。

今は別の地で暮らすものにとって、そこで暮らす人達とは何のつながりもなくなっています。
私にとっての佐賀は何十年も前の佐賀であり、そこで一緒に暮らした人達です。

今回、遥か昔に栄えた吉野ケ里にも行って来ました。
大胆な言い方をすれば、彼らのふるさとも佐賀です。

長い歴史の中で、それぞれがたとえつながりを持たなくても佐賀を故郷にしている人々が沢山います(いました)。これは一体何なのでしょうか?

これらの人々が佐賀に持つ共通点がありました。
つまり、故郷の山や川や土地です。
佐賀市内から山は少し遠いけど、市内には多布施川や八田江が流れています。
また、遥か昔の人達が整地し住めるようにした土地があります。

代々そこに住んできたということは、その地を鎮める氏神様がいるわけです。
その氏神様の元に皆集まって、年代を問わずふるさと佐賀を共有しているのかも・・・?ふとそんな気がしました。(終わり)
 

吉野ケ里遺跡2

 投稿者:関ヒマ  投稿日:2016年11月14日(月)13時06分45秒
  画像  

肥前・筑後の旅6

 投稿者:関ヒマ  投稿日:2016年11月14日(月)13時04分56秒
  神埼
吉野ケ里遺跡

「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳?。可七萬餘戸。」これは魏志倭人伝の一節です。

邪馬台国は多くの作家が小説にしていますが、いまだに比定できないでいます。

邪馬台国を連想させる吉野ケ里遺跡は神埼の吉野ケ里公園駅から徒歩10分の所にある、広大な面積の国の特別史跡です。

よく整備された遺跡の中はいくつかの環濠集落になっており、一つの集落には、四方に敵の侵入を防ぐ高い見張り台があり、王やその妻や大人の住居。高床倉庫群や巨大な祭殿や巨大墳丘墓などが再現されていました。

まるで、弥生時代にタイムスリップしたような感覚です。

遺物展示室の中には発掘された沢山の甕棺や人骨などが収められていました。
衝撃的なのは首のない人骨や十数本の矢じりのあとがある人骨などが見つかっていることです。

中国の複数の史書では「倭国大いに乱れる」と書かれていることや吉野ケ里の集落で見張り台が多いことなどから、他国との争いが絶えなかったことが想定されます。

また、この集落はその後ある時期に突然姿を消していることも不思議ですね。


 

沼南ボーイ様

 投稿者:関ヒマ  投稿日:2016年11月14日(月)07時57分43秒
  有難うございます。
御居の間が図書室に使われていたのかは自信がありません。
ただ、あの部屋には本が沢山あり、私はあの部屋で「ハンニバルのアルプス越え」の絵本を読んだような気がします。
 

間違いではありません。

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2016年11月14日(月)06時11分7秒
  関ヒマ様はまちがっていません。漢字では御居の間です。(オイノマ)。
おいのまが図書室に使われた記憶はありませんが、忘却でしょうか??[
赤門も記憶ありません。東大の赤門などわゆる赤門は将軍家に嫁いだ方の出た藩に許されるものですが、鍋島家から徳川家に嫁いだ方がいらした記憶はありません、私は知りません。
ただし鹿島高校みも赤門があるようですが、その由来は私はしりません。
 

昨日の朝刊より。

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2016年11月14日(月)05時39分44秒
  ①子の無くて一期の不覚ぶだう食ふ
②職人の寡黙が松の手入れかな
 

新聞休刊日

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2016年11月14日(月)05時32分55秒
  11月13日の朝刊より。
①軽やかにウテップふんでかけぬける過去形はいやだ平尾誠二よ。
②秋日和ひと多ければ背伸びして寫メール掲げるコスモス畑。
③千万を超える孤食の輪の中で今朝も元気で納豆食う。
 

佐賀

 投稿者:関ヒマ  投稿日:2016年11月13日(日)18時51分3秒
  ③佐賀城跡~大隈記念館

佐賀城跡は唯一現存する鯱の門から始まります。
柱に残る佐賀の乱の弾痕後が当時の戦闘の生々しさをいまに伝えています。
中に入ると復元された佐賀城本丸御殿が佐賀城本丸歴史館として見学できるようになっていました。

資料によりますと佐賀城本丸は慶長16年(1611年)勝茂の代に完成し、その後火災により焼失したものを、天保6年(1835年)閑叟が再建したそうです。

戦後は赤松小学校がその敷地を使用していましたが、再建された建物のうち「おいのま」と称する建物が唯一残っていました。小学校では図書館として使っていました。

こんど、本丸歴史観の中を見せていただき、「御座の間」というのが「おいのま」に当たることがわかりました。

赤松小学校の卒業生である私は当時「おいのま」といっていましたが、言い間違いだったのでしょうか?読者に赤松小学校の卒業生がおられたらご教示ください。

城を出て南側のお堀の道路を隔てたところに、城から移転した赤松小学校がありました。入り口には立派な赤門がありましたが、これは昔からあったのでしょうか?記憶にないので併せてご教示ください。

さて、城を後にして次は佐賀市内の最後の目的地大隈記念館です。
水ケ江地区は土地勘(?)があるので、徒歩で向かうことにしました。
道すがら、私が幼年期を過ごした場所があるのでそこを通って行くことにしました。

国道から路地に入ったところを昔は小路といっていました。
昔住んでいた家のあった小路に一歩足を踏み入れると、道路は昔のままでしたが、道路に面して立ち並ぶ家々は全く違っています。
途中太平洋戦争で家が焼けたあとの原っぱがありましたが、それもいまはありません。
唯一昔の建物を発見しましたが、その敷地には別の建物が併設して建っていて、古い建物には人が住んでいないようでした。
私の昔住んでいたところは竹垣の垣根もなくなり、場所を特定することさえ難しいほど昔の面影を残していませんでした。
わずかに近くのお寺やキリスト教会が残っている(教会は建て替えられていました)くらいでした。
そこから、大隈記念館までは近いのですが、途中の建物は建て替えられたのか全く違った風景でした。

大隈記念館では大隈さんの旧宅は改修中で入れなくてちょっと残念でした。
私たちは佐賀駅から次の目的地吉野ケ里へ向かいました。
 

了解しました、

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2016年11月13日(日)18時29分41秒
  市村体育館を右手に見てその東側ということで解りました。ありがとうございます。懐かしいですね、赤松小学校の生徒のときのぎりぎりの行動範囲だったようです。  

沼南ボーイ様

 投稿者:関ヒマ  投稿日:2016年11月13日(日)17時48分25秒
  県庁側に遊歩道があり、市村体育館を右手に見て、そこから少し東に歩いたところで撮影しました。
申し訳ないけどビルの名前はさっぱりわかりません。
 

Re: どうでもいいことですけど

 投稿者:沼南ボーイメール  投稿日:2016年11月13日(日)16時58分50秒
  > No.25664[元記事へ]

> 貫通道路は今は国道34号線ではなく207号のようです。34号は北部バイパスと一時呼ばれた佐賀駅の北側の道の事を指すようです。地図の表記はそうなっています。貫通道路の名称は使われているようです。
>
 

関ヒマさんへ

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2016年11月13日(日)16時36分20秒
  北の御堀端の写真。県庁の議会棟側から撮ったものですか?見えているビルは佐賀新聞社とか、
昔の電電公社?正面の大きいビルは、県警本部?ですか?
 

沼南ボーイ様

 投稿者:関ヒマ  投稿日:2016年11月13日(日)12時51分10秒
  格下げになったんですか。知りませんでした。
早速、訂正いたします。
 

どうでもいいことですけど

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2016年11月13日(日)12時07分59秒
  貫通道路は今は国道34号線ではなく207号のようです。34号は北部バイパスと一時呼ばれた佐賀駅の北側の道おおうです。地図の表記はそうなっているようです。貫通道路の名称は使われているようです。
 

佐賀

 投稿者:関ヒマ  投稿日:2016年11月13日(日)08時38分38秒
  ②佐嘉神社・松原神社

佐賀は小都市といっても県庁所在地。一日では廻りきれません。
そこで、私がわかるエリアの水ケ江地区と佐賀城跡のある御堀端周辺を友人に案内することにしました。
これからの話は佐賀出身の方には説明の必要がないけど、他県出身の方そして今回同行した友人達のために書いてみます。

最初に貫通道路(国道207号線)のある北の御堀端周辺を散策しました。お堀の周りは良い散策道路となっていて、快晴のポカポカした暖かいなかを歩くのはまさしく快適そのものです。
友人は最初お堀の大きさに驚いていましたが、36万石の大名だったことを思いだし、納得していました。

お堀には昔ボートが浮かんでいたように記憶していましたが、今はありませんでした。 お堀の東側、佐嘉神社の南は昔広場になっていて、縁日には蛇女やろくろ首などを書いた看板のある怪しげな小屋が立ち並んだり、サーカスが来たり、相撲の巡業場になって相撲取りが来たりしていました。が、今は駐車場になっていました。

佐嘉神社は鍋島閑叟公を祭った神社です。境内にはいきなりカノン砲やアームストロング砲の大砲がお出迎えです。
鍋島閑叟はフェートン号事件の屈辱から近代化に尽力し、佐賀藩を日本屈指の雄藩にし経済的にも豊かにしました。

閑叟は教育にも力を入れ、後に明治政府で活躍する人たちを生むことになります。
佐嘉神社の境内にある佐賀七賢人の案内板のなかに佐野常民の案内がありました。
彼は緒方洪庵に学んで医術に詳しく、日本赤十字社の創設で有名ですが、武器製造にもかかわった武人でもあります。
ここには、教科書に載っている佐野の写真と共にいかつい顔をした写真もありました。

緒方洪庵に学んだ人では長州の大村益次郎がいますね。大村も佐野と同様医者であり武人でもあります。
大村は上野戦争(戊辰戦争の一つ)で薩長を始めとする新政府軍を率いた総大将です。

そして、この戦いで圧倒的な武力の差で旧幕府軍を破るのに佐賀藩の新式兵器がものをいっています。
閑叟はこの戦争から、新政府軍に味方することを決断しています。

友人と話をしていたのですが、友人は「閑叟の決断の影には緒方洪庵塾で一緒だった佐野と大村のつながりが何か関係しているのではないか」とユニークな発想を展開していました(文献をひもといたわけではなさそうです)。

佐嘉神社の隣が松原神社ですね。
松原神社は鍋島の藩祖と竜造寺を祀っています。
参拝するところには、鍋島と竜造寺の紋所がありました。

竜造寺家の家老であった鍋島家は竜造寺隆信没後島津の猛攻撃を鍋島勝茂が耐え抜き佐賀の地を死守したと何かの本で読んだことがあります。
竜造寺から鍋島への政権移譲はどんなものだったのかは諸説あり分かりませんが、松原神社には隆信と勝茂他が合祀されていました。

画像上 北の御堀端
画像中 カノン砲(佐賀神社入り口)
画像下 佐嘉神社
 

朝刊の俳句

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2016年11月13日(日)06時10分19秒
  ①芭蕉忌や新幹線のひとり旅「一人旅の今宵。芭蕉が新幹線に乗ったらどんな句を作るだろう。」
②時睨むほどにやさしき初紅葉「時移り秋。その早さを睨むようにしかし優しく紅葉に変わる青葉。作者のこころ深し。」
 

朝刊の歌

 投稿者:沼南ボーイ  投稿日:2016年11月13日(日)05時55分15秒
  ①風邪に臥す単身赴任の夕まぐれ手足より化す山椒魚と。「風邪をひき単身赴任の部屋で臥している。倦怠感から山椒魚の幻覚には井伏鱒二の短編が混入していただろう。」
②うろこ雲白く輝き蒼穹の天につながる天の橋立。天の橋立を大きく鮮明にうたった手腕。のびのびとした歌の調べもいい。