|
甲斐氏の小説を少しずつここに掲載させていただきます。
私の履歴書
甲 斐 常 逸
2019.6.25
① 誕生、 幼少期~少年・少女期
誕生、人生最初の記憶、小学校低学年の頃
私は小さい頃の事をあまり覚えていません。少し大きくなってから親に聞いた話です。父は、戦前、蒙古電力に勤めており、
家族と共に蒙古に住んでいました。戦争が終わる半年前に、「この戦争は負ける。」と言って、家族を日本へ返したそうです。
母は1歳の私を背負い4歳の兄の手を引いて、鉄道で釜山へそして輸送船で下関へ、幸運にも辿り着きました。父も終戦後、
捕虜にもならず上手く逃げ帰ったそうです。父が軍刀を床について椅子に座っている写真を見たことが有ります。
父は蒙古時代のことを私に話すことはほとんど有りませんでしたが、一度、「中国人は偉い。中国人の捕虜に穴を
掘れと言ったら、穴を掘った。」と言いました。当時の私でもこの穴が何のための穴かぐらいは分かりました。
父は中国人に対し強い贖罪意識を持っているのが分かりました。
今度の戦争は負けると言う情報をどうして得たのか、穴を掘るのを見たのか、指示したのか、軍刀を使ったのか、
どうやって日本へ逃げ帰ったのか、調べる方法も調べる気も有りませんが、父は単なる民間人ではなかったのでしょう。
もし、父が半年前に家族を帰さなければ、多く語られる敗戦後の満蒙からの逃避行にあるように、私のような幼子は、
敵に見つかるからと言って親に絞め殺され、川に捨てられ、置き去りにされ、運が良ければ中国残留孤児になる等の
可能性は極めて大きかったと思います。私はこの事実を深く受け止めています。
日本に帰ると、父の実家は佐賀市の近く川上の農家で、そこにしばらく滞在していましたが、10人兄弟の末っ子で生活の糧も無く、
間もなく追い出されるように家を出たそうです。困窮の中で炭鉱夫をやろうとしていたところ、幸運にも九州電力に
拾って貰いました。西堀端の掘から30mぐらい入った所に九州電力の社宅がありました。旧料亭を改造したもので、
長屋になっており、2間に流しが付き、風呂は共同風呂でした。妹が2人でき、6人家族でした。夕食のおかずが卵1個で、醤油で
倍ぐらいに増やし、ご飯にかけて食べていました。その頃の生活が身に付き、今でも残った食料を捨てるのには
罪悪感を覚えます。
赤松小学校に行きましたが、低学年の頃は人見知りをする無口な目立たない子でした。勉強も好きではなかったのですが、
考えるのは好きでした。小1の頃、父に将棋を教えて貰いました。半年もすれば、父に勝てるようになりました。
近所の中高生とも指しましたが、ほとんど負けませんでした。勝つコツは、自分がこう指せば相手はどう指すかを考えて、
その相手の手に対してどう指せば有利になるかを考えて、考えつくまで手を進めないことです。このやり方でやっていれば、
負けることは無いのですが、誰も相手をしてくれなくなり、私の将棋人生は1年足らずで終わりました。
② 少年・少女期
小学校高学年、中学校の頃
私は早熟だったため、小学校高学年になると成績は断トツになり、体力的にも相撲では負けなくなりました。
性格的にはシャイだったため、自分から積極的に何かをやるタイプではありませんでした。PTAの授業参観の時、
先生は先ず易しい質問をします。皆、ハイハイと言って元気よく手を上げます。私は手を上げませんでした。
次第に難しい問題を出していくと、手を上げる生徒が少なくなって、やがて誰も手を上げなくなります。すると、
先生は「ハイ甲斐君」と言って私を指名します。そこで、私は答えを言います。授業参観の最後は朗読です。
皆に1小節ずつ読ませます。そして最後の2小節を私に読ませて、終わりとなります。このように、5年生ぐらいまでは、
私は先生のお気に入りでした。ところが、6年生の授業参観の時です。先生が「セルロースは炭水化物ではない。
消化できず、栄養にならない。」と言いました。私はそれを聞いて直ぐ、「おかしい。セルロースは炭水化物だ。
牛や羊等の反芻動物は消化して栄養にする。ちゃんと調べて、正確に説明してください。」と言いました。
満場で恥をかかされた先生は、それから私を指名することは無くなりました。
中学は、堀の向こう側の城南中へ行きました。2年生の時、音楽の井出先生から「ブラスバンド部を作るからやらないか。」
と言われました。「はい」と答えると、「部長をやれ」と言われました。3年生は、卒業まで1年しかないので
上手くなれないとして、部に入れなかったため、いきなり部長でした。1曲を間違いなく最後まで吹くのがなかなか出来ず、
今の小学生より下手だったでしょう。ブラバンの練習は少ししかやらなくて、グランドへ行ってソフトボールばかり
やっていました。グランドは、野球部以外は立ち入り禁止でしたが、「応援してやるのだからいいじゃないか。」といって、
センターの辺で我が物顔にソフトボールをやっていました。
中学3年の時、近郊の尼寺に転居しました。私は中学を変わらず、30分は優にかかる距離を自転車通学しました。
ある日起きると頭がズキズキして、顔が真っ赤です。額に手を当ててみると相当熱がありました。母は知らん顔なので、
そのまま自転車で学校へ向かいました。必死の思いで自転車を漕いで、学校に着きました。2時間目は体育の時間で、
ラグビーでした。私は、いつもの通りフォワードをやりました。スクラムを組んで押し合いますと、汗だくになり、
最早、意識朦朧でした。しかし、教室へ戻って体温が下がってくると、汗が引き、意識もしっかりしてきました。
風邪が治ったのです。「風邪は、ラグビーをすれば治る」私は病気に対する絶対的な自信をもちました。中高は皆勤賞、
浪人、学生時代は病院に行くと言う概念がありませんでした。就職してからも、ほとんど病院には行かず、
風邪薬など飲んだことが有りません。
中学では同じクラスに松本、尊田、原口、山田、副島さんといった可愛い子がいましたが、女性は、相撲もソフトボールも
しませんので一緒に遊ぶ気は全く無く、興味も有りませんでした。男性では、野球部の松瀬氏と良く付き合っていました。
私も野球をやりたかったのですが、全く下手だったので、彼は憧れでした。
(つづく)
|
|