新積み残しの記 三語で観る世相 時間・空間・人間                     
                           
                           赤坂 武雄
 
                        
        
                   
 
 昨年の暮れに、朝日新聞の「天声人語」が時刻と時間の違いを取り上げた。なるほどと納得した憶えはあるが、
メモらなかったので確かではない。時刻は時の流れの一瞬、一時点を指し、その時点と時点の間を流れるのが
時間だ、そんな趣旨だったとおもう。
私はこれまで、時刻と時間をそこまで深く考えず、ある時は「時刻が来たから、出かけよう」と言い、また
ある時は「時間になったから、この辺でお開きにしよう」などと、適当に使ってきたように思う。

 時刻は時の刻みとも読める。その時刻の刻み方にも、時代によって長短がある。江戸時代は不定時法で、
昼夜をそれぞれ六分割していた。なので、当時の一時(いっとき)は四季によっても異なるが、平均すれば
現代の2時間に当たる。
一刻はその一時をさらに4分割したから、現代の30分にあたる。時代劇に出てくる「草木も眠る丑(午前1〜3時)
三つ時」は、一時(2時間)を4分割した3つ目、現代の午前2時〜2時30分というわけだ。蛇足ながら付言すると、
現代中国の1刻は15分だから、一時を4分割して、一刻とする原則は変えていないことになる。
 さて、草木さえ自然の摂理に従って眠るというその丑三つ時が過ぎ、時は寅 (午前3〜5)から明け方の
卯(5〜7時)へと移る。お天道様が昇り始めれば、闇夜は明けて悪魔は潜むべくもない。人々が寝床から起きて
一日の活動を始める時刻だ。
卯の刻に鳴らされる鐘は、明け六つ。さあ、今日も一日、お天道様の下で、暮れ六つが鳴る酉(午後5〜7時)の
刻まで元気でがんばるぞ。

 人間も自然の一部、自ずと自然の時の流れに、間を合わせて生きている。祖先も春に種を撒き、秋に刈取り
貯え冬に備える。加えて、人間は、社会的文化のなかに生きる動物であるがゆえに、人為的社会的な時間の枠に
合わせて動かざるを得ない。8時から17時の就業時間の会社もあれれば、セブン・イレブンの間開店する店もある。
この国は時間厳守が美徳。毎日、営々と汗水たらして働いていても、社内の、あるいは仲間内の集まりでも、
遅刻しようものなら以後、あれは間に合わない奴だと、レッテルが貼られるかもしれない。ましてドタキャンは!

 ニューヨーク時代、ある年の雪の日に、東京本社のおエラさんが出席する会議が開かれた。私は深く考えもせず
車でマンハッタへ向かった。予期しなかった「大雪」に、マンハッタンへ渡る橋も中心部の大通りも大渋滞、
真冬なのに冷や汗を掻いた。結果は遅刻。市内に前泊しておくべきだった。我ながら先の読めない、
要領の悪い間抜けだ。

 間に合わせるべきなのは時間だけではない。その場・その空間という「間」も然りだろう。そもそもその場に
居合わせなければ、それまでのその場の空気の流れも、事の運びのリズム、テンポという名の間合いも読める
はずがない。それも読まずに慌てて、その場にそぐわない、間抜け発言をしても自分自身後で、決まりが悪い
思いをするだけだろう。
ましてその場に居合わせなければ、事の成否に関与できず、間抜け者と陰口を利かれても仕方なかろう。
以後、周りからもKYだとか、間合いというものが分からない奴だと、レッテルを貼られるかもしれない。
とかくに人の世は、住みにくい。漱石のいうとおりだ。

 でもというべきか、ではというべきか、人とは一体、誰? 何者? 人の世に生まれた88年余を生きてきたが、
今は時代遅れの暇老人。
国語辞典では「人」をどう規定し、誰を、何者を指すのか。生まれて初めて、「人」の意味を三省堂大辞林で
引いてみた。

 ひと【人】 @霊長目ヒト科の哺乳類。直立して2足歩行し、動物中最も脳が発達する。言語を持ち、手を巧みに
使うことによって・・・。Aある特定の、一人の人間。個人。B一定の条件に合った個人を漠然と指していう・・・。
このあとJまで延々と人の意味が説かれ、37個も用例が挙げられている。
人とは、「人」という言葉を使う時と所、状況で、巧みに「人類」から「うちの人」まで使い分ける動物なのかもしれない。

 人とは誰、何者という問いに、大辞林は@で生物学的、生態学的に見たヒトを指し、Aでは、特定の一人の
人間、個人だという。とどのつまり人とは、人と人との間に直接間接的に依存し、生きざるを得ない社会的動物ということか。
然らば逆に、漢字で表す人間とは誰?何物? 次に学研の大漢和大辞典、岩波の広辞苑、Webの電子辞書を引いてみた。
おもしろいことが分かった。

 漢字の「人間」をごく普通に呉音でニンゲンと読むと、人間以外の何者でもない。でも昔、NHKの大河ドラマでみた
織田信長が、最後に炎の中に舞う場面で、「人間五十年・・・」を、漢音でジンカンと読み、謡っていたような気がする。
「ジンカン」の読みで間違いないか、Webで確かめてみた。人間の読み方一つで、人間五十年の意味が大きく違ってくるとの、
親切な解説がつけられていた。全文を引いてみよう。


 人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。読み方:じんかんごじゅうねんげてんのうちをくらぶれば、
 ゆめまぼろしのごとくなり。
 人の世の50年間は天界の時間と比すれば夢幻のように儚いものだ、といった意味のことば。幸若舞「敦盛」の一節。
 「敦盛」におけるこの「人間五十年下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり」という詞は、しみじみと世を儚む
 詞として登場する。

 現代における「人間(にんげん)の人生は50年」や「せいぜい50歳で尽きる人生は儚い」といった解釈は、元の
 意味からは離れた通俗的な理解といえる。また、織田信長を関連づけてこの句が引かれることは多いが、織田信長の
 発言というわけではない。

 また別のWebには、こんな「人間」の訓読みが載っている。
【人間】読み方:ひとあい。意味は、人づきあい。交際。例文 「人間、心様、優に情けありければ」〈平家・八〉

【人間】読み方:ひとま 意味1 人のいない間。人の気づかぬすき。 「人間にも月を見ては、いみじく泣き給ふ」〈竹取〉 
 意味2 人との交わりが絶えること。 例文 「少し契りのさはりある、人間をまことと思ひけるか」〈謡・女郎花〉

「平家物語」では人間を「ひとあい」と訓で読んで、人づきあい・交際の意味だという。人とは人と人との間に在って、
人と会って意見を交わし、思いを重ねたり、反発したりする存在なのだろう。
同じ「人間」も、使われる時と所、使い手が違えば自ずとその読みも、意味も違って来る。謡曲の「竹取物語」では、
人間を「ひとま」と読み、平家物語とは逆に、人のいない間、人が気付かない間を指している。言われてみれば確かに、
月に昇っていったかぐや姫を偲んで人知れず一人泣きするには、余人のいない時間と場所がいいと、こちらも納得だ。

 人はある時は人恋しさに人との出会いを求め、またある時は人づきあいが煩わしくなり、自ら好んで群れから離れ、
独りになりたいと望む。それでも人とは、与えられた時間・空間・人間の三つの「間」で生きるべき存在なのであろう。
この先も、この三つの「間」を大事にしたい。

                2023年2月22日







          

 



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