シベリア道中 ルービン良久子 1967年夏、私は初めて日本を後にした。 勘当同然になって結婚したアメリカ人の夫とその友達夫婦の4人での旅である。夫と友達は、ボストン近郊出身で、 高校、大学と一緒の上に、大学では、夫は日本文学を、友達は日本の歴史、特に米騒動を専門に研究していた。又、 奇しくも、同じ時期に研究のために来日していて、それぞれの下宿も中央線沿線と割に近かったので、私も結婚する 前から彼らとは親しくしていた。 2年間の日本滞在を終え、二人ともアメリカへ帰ることになった。アメリカでの新学期が始まるのは9月から なので、その前に、長い夏の休暇を利用して、日本からヨーロッパへ行こうということになり、一番安く行ける 方法を探した結果、横浜からナホトカ航路でソ連を経て、その後、ギリシャ、イタリア、フランスまで行くのが 最良ということになった。1か月半に渡る貧乏旅行である。 東京のインツーリストで、横浜、ナホトカ、ハバロフスク、イルクーツク、モスクワ、レニングラード、キエフ、 オデッサまでのソ連滞在中のホテル、食事、交通機関等の全額を前払いして、分厚いクーポンを貰った。 一人200ドルで、当時1ドルが360円の円安の時代である。 先ず、横浜港の大桟橋からバイカル号?に乗船。色とりどりのテープが船と桟橋を行き交い、私は、数人の 友達と上京してきた伯母に見送られ、初めて故国を離れる感傷と将来への期待と不安で胸が潰れるような 思いでタラップを上がった。 船内ではグループごとに食事を知らせるアナウンスがロシア語、英語、日本語であり、何だか1日中 食べていたような記憶がある。ロシア民謡やダンスの余興もあったが、私は海上に点在する島々をこれが日本の 見納めになるかも知れないなどの思いを込めて眺めたりしていたので、他のことはあまり覚えていない。 横浜から2泊3日でナホトカに到着。ナホトカからシベリア鉄道で、ハバロフスクで乗り換え、イルクーツク までの5日間の旅が始まった。3等車は2段ベッドが2組あり4人一緒の個室だった。小さいころから不眠症だった 私には快適とは言い難かった上に、食事も、時たま、ごろごろと切られたキュウリ以外には新鮮な野菜が何もなく、 ボルシチ、ポテト、固い肉、チャイなどだったし(余談になるが、オデッサから船でギリシャに到着した時は、 新鮮な野菜、果物が山と積まれたマーケットの光景に感激した。特に、地中海の太陽で熟した濃い味のオレンジが たまらなく美味しかったことを懐かしく思い出す。又、車内の掃除も殆どなかったので、特にトイレは最後の あたりは酷い汚れ方だった。列車が止まる駅ごとにバブーシュカを巻いた女たちが売っている馬糞紙のような 粗末な紙に包まれたパンやチーズを買ったりもした。 シベリア平原をひた走りに走る光景にも飽きてきていた3日目あたりだったろうか、列車が少し長く停車する とのアナウンスがあった。窓の外は何もない場所である。ロシア人の車掌に手振り身振りで何分停車するかと 聞いたところ、彼は右手の5本の指を広げて3回繰り返し目の前で振った。15分の停車なのだ。私はすべてが 初めてのことばかりで、あまり良い状態だとは言えなかったので、車内に残ることにし、あとの3人はそこらを 少し歩き回ることにした。 ところが、思ったよりずっと早く列車が汽笛を鳴らしたのである。発車しそうな気配に、私はあたりを見回した。 3人の姿はどこにもない。血がかっと頭に上り、心臓がどきどきと脈打ち始めた。私は窓から大声をあげて夫の名を 呼んだ。しかし、見渡す限り、影も形もない。と、列車がゆるゆると動きだしたではないか。その時の恐怖は忘れ ようにも忘れられない。もしかして、シベリアのど真ん中で、一人列車に取り残されるのだろうか。着の身着のままで パスポートも何も持っていない3人はどうなるのだろう。果たして又会えるのだろうか。列車に日本語がわかる人が いるのだろうか。イルクーツクに着いたらどうしたら良いのだろう。私の英語で説明できるのだろうか。兎に角、 今すぐ、車掌を探さなければ。汽車が少しずつスピードを増して行く。私は席を離れかけた。と、3人が全速力で 駆け寄ってくるのが見えた、速度をあげつつある列車に手をかけ、列車と共に走りながら、必死の形相で辛うじて 乗り込むことができた。泣いてよいのか笑ってよいのか分からなかった。 車掌は15分どころか5分の停車を強調するために3回手を振ったということだった。又この駅はチタという町で、 バイカル湖、モンゴル国境の近くだとも教えてもらった。 あれから54年が瞬く間に過ぎ去った。幾多の紆余曲折はあったとはいえ、4人とも、今まで無事に生き延びる ことが出来たのはラッキイなことと言わなければならないだろう。この友達とは、フロリダ、シアトルと離れては いるが、今でも、お互いの家を訪問し合ったりして親しく付き合っている。去年の5月には一緒に3週間、日本へ行 く計画が既にできていて、航空券もホテルも予約していたのであるが、コロナの所為でキャンセルになったのは 如何にも残念であった。願わくは、近いうちに、ワクチンが行き渡り、チタ駅での劇的な出来事のようなこともなく、 思い出の場所を、ゆっくりと歩き廻れるのを期待している次第である。