アントワープのチャイナタウン 6
櫻井 利英
北方ヨーロッパの港
アントワープは世界に知られたヨーロッパの重要な港町で、昔から栄えて来たベルギー第二の都市だ。フランス、
ノルマンディーの砂浜から始まって、ベルギー以北の海岸線には切り立った断崖は無く、オランダ、ドイツ、
果てはバルト海沿岸からロシアサンクトペテルブルグに至るまで、ネーデルランドつまり、海抜がほとんどゼロか
ゼロ以下の低い土地で出来ている。ヨーロッパの人達は低い土地、ネーデルランドは貧しい国とみている。
このような土地では、外洋船が横付けできる自然の良港は無く、全て人工で造られた港で成り立っている。
アントワープの港は外洋からは100kmも内陸にある。オランダのロッテルダム港も北海から離れた内陸に有る。
そして、船が荷の揚げ下ろしが出来る場所は全て水門で海洋とは切り離されてあり、潮の満ち引きから遮断
されている。日本では外洋に面した港が普通だが、ヨーロッパの北の方は港の風景が違う。自然の力を借りて
港湾を造るのと人工的に造るのは大きな違いがある。深い英知が必要で、完備された港湾施設一つをとっても、
ヨーロッパ文明の奥の深さを垣間見る気がする。
大久保商会
酒井がアントワープに住み始めた以前から、そこに定住し、シップ・チャンドラー(ship chandler 船具商)
をして成功していた大久保龍吉がいた。彼は、第2次世界大戦の前から商売をしていた酒井の大先輩で、独立して
間もない酒井は未だ将来を模索していた時期であった。シップ・チャンドラーという商売は、船と乗組員用の
補修用部品、食糧品、日用雑貨など、注文が有れば何でも船が入って来る間に調達して船に届ける「何でも屋」
的な商売である。
大久保商会はアントワープの街の一番古く、港に近い場所に在った。小説「フランダースの犬」の舞台になった、
あの大聖堂が近くに見えるレンガ造りの3階建ての家だった。アントワープの街はスヘルデ川に沿って発展
してきた街である。大久保は神戸の古い商社の駐在員だったが、ここで独立し、ベルギー人の奥さんと2人の息子を
持って永住していた。何だか酒井と同じような軌跡をたどった人であった。
第2次世界大戦中、帰国はせず、ベルギーに住み続け、ドイツ軍がベルギーに侵略してきたときも、かえって、
その恩恵を受けた人だった。それは、ナチスドイツと当時の軍国主義日本とが同盟を結んでいたからであった。
初老の龍吉は、訪ねて行った酒井を喜んで迎え、物静かで落ち着いた話し方でこれまでの人生を語ってくれた。
ベルギーはアフリカとのつながりが深い国で、中でもコンゴを植民地化して近代化を進めた国である。
コンゴの鉱物資源やゴム資源などを、ヨーロッパの市場に供給していた。特に軍需が活発な当時のドイツは
自動車のタイヤ用のゴムが必要だった。中でも軍需と民需のゴムバンドを大久保が一手に商売を握って発展
していたのだった。同盟国であった日本人の大久保はそうやって、ドイツ軍との商売で一財産を作り上げて
いたのだった。
戦後は、日本や外国からの外洋船が次々にアントワープ港に着いて活況を呈していた。日本郵船、商船三井、
川崎汽船K-Line、デンマークのマースクライン、香港のOOCLラインなどの入港で、貿易量の拡大する
アントワープ港は拡大の一途をたどっていた。それは、大久保商会としても順風満帆の商売が出来たことは
容易に想像できる。その後、オランダのロッテルダム港が次第に拡張されて、寄港する船の数も次第に
ロッテルダムの方が多くなり始めた。それで、大久保商会もロッテルダムに事務所を開設し、現在は、長男が
その事務所を運営している。次男の方はアントワープ事務所を、老いた父親の龍吉と一緒に運営していた。
1980年代に龍吉が亡くなり酒井も葬式に参列した。戦前、戦中、戦後をアントワープで生き延び、大きく
栄えた一世代がそこで終わったのであった。今は息子たちの時代になり、今でも、大久保商会は
アントワープとロッテルダムで続いている。
乾燥シイタケの終りと電気炊飯器の再開
乾燥シイタケの商売は酒井が独立して初めて扱った品物であった。その間スリッパの商売も入ったが、長くは
続かなかった。スリッパの商売から学んだことは、現地の人と張り合う商売は難しいと悟ったことであった。
酒井は、自分にしかできない商売を常に模索していた。そうして、生み出されたのが電気炊飯器の商売であった。
シイタケを買ってくれる卸屋と小売店のルートに乗るものを考えた。電気炊飯器は電気の知識のない会社では
扱うことが難しい。でも、酒井はもともと電機の技術屋だ。酒井は、これなら自分だけにしかできない商売だと
直感した。そして間もなくシイタケの商売に見切りを付けなければならなくなった。日本産シイタケの価格が
高騰し、先ず韓国産の物しか買えなくなったからだ。その後、中国産のシイタケが市場に溢れて来た。
チャイナタウンではシイタケは無くてはならない品物であったが、高価な日本産の物はこうして店頭から
無くなってしまったのだった。
それと同時期に、ベルギーの中でも、シャンピニオンに並んで生シイタケ(現地ではシイタキと呼ばれる)が
スーパーなどで売られだしたのであった。そして、ついに独立から8年経って、酒井は乾燥シイタケの商売を
完全に終わらせたのであった。
時の流れとともに、取り扱う商品も変えていかなければならなかった。
(写真1,2、ベルギーで試作した自家製シイタケ。シイタケの菌は日本から取り寄せた)
韓国製の電気炊飯器はシイタケ商売の末期で、同時進行して育てていった。シイタケで儲けた資金を炊飯器に
つぎ込んだ。ダイゲン電器は最初から順調だったが、ある日突然倒産した事は前号で書いた。でも、酒井の
心配は間もなく終わった。操業再開の知らせが届いたのだ。酒井は嬉しかった。炊飯器の商売ほど自信が持てる
品物は未だ無かったからだ。
ダイゲン電気炊飯器の躍進
ダイゲン電器の炊飯器は良く売れたが、品質が悪く、良く故障した。それは、工場での品質管理がうまく
行っていないからだ。酒井は店の主人の目の前で簡単に修理をして、それが大きなセールスポイントとなった
訳だが、このままでは危ないと思った。炊飯器はキッチンで使われて、濡れ手で触る機会が多い。
万一感電事故や火災が発生したら商売は出来なくなる。韓国製の物はまだ改良の余地が沢山見られた。そこで、
酒井はスエーデンに飛んだ。
それは、スエーデンが制定した電気製品の安全規格は世界の安全規格になっていたからだ。ストックホルムに
有るセコム(SECOM)安全規格検査所にダイゲン電気炊飯器のサンプルを持ち込んで調べてもらった。
その結果、数か所の部品に問題がある事が分かった。セコムの認定を受けて、セコムのシールを貼って売れば、
大きな信用を得られるが、それには莫大な費用がかかり、酒井の取り扱い数量ではとても賄いきれないことが
分かった。でも、酒井は分かっていた。セコムの認定を受けなくても事故が起きないように品質の高い部品を
使えば済むことだ。
できればセコムの認定を受けている部品を調達すればよい。中でも電源コードは日本製の中で、既にセコムの
認定を受けているメーカーから取り寄せる事となった。ダイゲン電器では主要部品であるサーモスタット
(温度が100度を超えるとスイッチが切れる部品)は既に日本製を使っていたが、セコムの認定は未だだった。
そして、その数年後には、韓国製の電源コードの中にセコムの認定を受けている物も出て来たのでダイゲンも
日本から輸入しなくても良くなった。
酒井はセコムでの検査報告書をダイゲン電器に送り、どの部品を早急に取り換えなければならないかを
指示した。又、炊飯器の中の配線用部品も耐熱性の高いもの、配線の仕方など、丁寧に指導した。この事は
ダイゲン電器だけにとどまらず、その後、韓国製のテレビを筆頭に、全ての電気製品の工場に伝えられ、
韓国製品の質の向上に役立つ事になった。酒井が韓国の製品を扱い始めた頃、韓国には未だ国際安全規格の存在
すら知られていなかったのであった。
その酒井の努力はダイゲン電器からとても感謝され、ダイゲン電器との独占販売契約を取り付けるまでになった。
ダイゲン炊飯器は、その後酒井が商売を終えるまでの21年間、ベルギー、オランダからフランス、スペインなど
ヨーロッパ大陸の各国へと販売が拡大されて行った。
その頃までには、酒井はオランダの物流大手であるデ・ハーンの倉庫にスペースを借りることにした。1年に
1〜2回ほど40フィートコンテナーを使ってダイゲン炊飯器を輸入し続けていたからであった。この物流会社は
ロッテルダムの郊外、アルブラッセルダムに有った。ロッテルダム港に近く、高速道路にもすぐ乗れることも
あって、物流、特に酒井の商売の配送センターとして格好の場所であった。
商売が大きくなると通関業務、倉庫や手間がかかる配送業務は全てこのデ・ハーンと契約を結び、取扱量も毎年
増えていった。
思いがけない落とし穴
酒井は電気炊飯器のヒットで、大忙しになった。その間に長女(写真2)が生まれ、その3年後には次女が
生まれたのを機会に、手狭になったアパート暮らしを終えて、最初の家を購入した。家と言っても1軒家ではなく、
日本でいう長屋で、隣の家とくっ付き合っていて、地下室から3階までのレンガ造りの家であった。車は、娘たちの
学校の送り迎えもあって、妻用の乗用車と私の商売用の2台を持って、酒井にとって全てが順調だった。しかし、
そこには思わぬ落とし穴が待っていた。
妻のジョイスは別の男性と付き合っていたのだ。
つづく