新・積み残しの記 23    
            三字熟語で世相を観る 断捨離                   
                           
                           秋 たける



                        
 いつ頃からだろうか、新聞の文化・宗教欄になら似合いそうな断捨離というむずかしい三字熟語が、
家庭・生活欄で見かけるようになった。この断と捨、離の三つ文字は、どれも日常生活では一瞬、
身を引いてしまうネガテブな響きを与える漢字だ。
私は自分から命を絶ち、自ら人生を捨てる気はないが、その人生から否応なく離れなければならない
年頃になったことは間違いない。それだけに「命を絶つ、捨てる、離れる」と読める断捨離が気になる熟語だ。
インターネットで検索してみた。

 「ヨガの行法の『断行・捨行・離行』の頭文字を取ったもので、人生や日常生活に不要なモノを断つ、
また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという考え方、生き方、
処世術である。単なる「片づけ」や「整理整頓」とは一線を引く」また「断=入ってくる要らない物を断つ、
捨=家にずっとある要らない物を捨てる、離=物への執着から離れること」とあった。
察するに、やましたひでこさんという頭のいい人が、このヨガの行法の断捨離を読み直して、家のなかで
あふれかえる物の整理術として広めたということらしい。

 確かに今、家の中に物があふれ返っている。
必要に迫られ、どんなに慎重に考えて買った物でもいつか古びてこわれる日が来る。こわれなくても、
要らなくなる日がやって来る。要らなくなったものは処分するしかない。先日も物置からもうプレイすることも
ないゴルフクラブ、草刈り機、こわれた扇風機、ステレオのスピーカー、レコードセットを引っ張り出して、
廃品回収業者に引き渡した。やましたさんは、そんな時にどれから先に捨てればいいか、その辺の
アドバイスをしてくれるのだろう。

 物を捨てるといえば時々、テレビ、新聞でごみ屋敷という名の屋敷が話題に上ることがある。
屋敷というからには、ごみを広い敷地の中庭にでも放置しているのかと思えば、さにあらず、実は
自宅の前の道路に高々と積み上げているらしい。たぶん、家の中は捨てられないごみですでに
満杯になっているのだろう。そこで、表に出して積み上げるだけでは満足せず、わざわざ
ごみ集積所へ行って運んで来ることもあるらしい。
このようなごみの山がある日突然、近隣の一角に出現したら、それはご近所にとっては迷惑な話だ。
第一、火災が起きたらそのお宅1軒の問題で済まなくなる。またゴミの山は日が経てば悪臭を放ち、
風が吹けば風に乗ってどこまでも散らばるだろう。

 そんなごみ屋敷問題が取り上げられても、今は人権擁護のご時世、ご本人の真意がストレートに
表に出てくることはないから、その年恰好、経歴、まして何が動機なのか、なぜそんな物を集めるのか、
その人生哲学は外からはうかがうことはできない。あるいは、脅迫観念からくる病的な収集癖が
あるのかも知れないが、それもわからない。
私はごみ屋敷の話題を取り上げられるたびに、みんなで協力し行政にも入ってもらって、その近所迷惑、
危険を及ぼしそうな原因を取り除くのが当然だと思う。が、さはさりながら、だからといってみんなで
大義をふりかざして、その当事者を一方的に非難するのは止めたほうがいいと思う。

 今でこそ身の回りに物が捨て場に困るほどあふれか返っているが、それは長いこの国の歴史のなかで、
たかだかここ50年ほどのことではないか。それまではお殿様のために、明治維新後は、日清、日露戦争に
始まり、満州事変からシナ事変から中国侵略、太平洋戦争へと、戦いに明け暮れた。その戦争に
勝つために「欲しがりません、勝つまでは」と、国民は節約と質素倹約を強いられた。「お上というものは
勝手なものだ、その都合でご時世はどう変わるかわからない」「だから物は大事に使い、少しでも余裕が
あれば、その時に備えてこっそり蓄えて置こう」そのDNAが今も、われわれの意識の裏にこびりついて
残っているのかもしれない。私は今でもお茶碗の飯粒は一粒たりとも残さない。

 そんな質素倹約を旨とするこの国に、それとは正反対の大量生産大量消費、消費こそが美徳だ、
それが経済を成長させるという成長神話が声高に語られ始めたのは何時か。私はそれは、この国が
高度経済成長期の終期を迎えつつあった1960年代(昭和35年以降)の後半に入ってからではなかったかと思う。
あの時代、日々、新製品が市場に出現した。オリンピックのために高速道路を造り、新幹線を走らせた。
マイカーが増え、都内では渋滞した車が出すガスでスモッグになった。そのころ、東京に勤務していたので
よく覚えているが、車はほんとにのろのろ運転だった。

 当時、各地で公害が発生した。その一つに、製紙工場が田子の浦港に起こしたヘドロ問題がある。紙は、
戦時中の極端な物不足の時代に、草深い能登で育った私にとって、貴重品というよりも憧れに近い存在だった。
敗戦直後の1945年(昭和20)9月、その直前まで使っていた教科書に墨をぬらされた話はこれまで「言の輪」
本誌や掲示板に何回となく書いたが、問題はそのあとだった。教科書なしの授業がどれだけ続いたか
記憶にないが、たぶんその終戦の翌年、1946年(昭和21)になってからだったと思う。ある日教室で、新聞紙大の
わら半紙に印刷された教科書が配布された。教科書といっても、それは教科書の大きさに裁断されていなかったし、
編綴もされていなかった。それをわれわれはハサミで点線にそって切断し、下に打たれたページ通りに重ねて、
飯粒の糊でくっ付けて製本にした。ページ数も覚えていないが、4の倍数になっていたとすれば、
16ページだったのではないか。
ノートはどうなっていたか。終戦の1〜2年前からクラスのなかで5冊とかが抽選だった。抽選にはずれたものは
ノートなし、暗記するしかなかった。

 終戦前後の紙不足の実態を書きたいと、当時を思い出しながらこれを綴っているが、新聞も―当時、我が家は
大阪の朝日だったが―、たった1枚きり、その裏表の2ページだけだった。学生服のボタンが竹製に替えられた
ことは、数年前に本誌に書いた。生家が農家だったので、曲がりなりにも住と食はあった。それは何よりも
幸いなことだったが、そのほかの衣類、日用品は何もかも不足していた。それを語りはじめると切りが無いから、
話を憧れの紙に戻そう。
1947年(昭和22)4月、今の六・三・三・四制に移行し、私は新制の中学1年生になった。が、校舎は小学校に
間借りのまま、新しい教科書はなかなか揃わなかった。理科を受け持った野畠先生が授業時間に話したこの一言を、
私は今も鮮明に覚えている。

「紙は文化のバロメータである」

 日本製紙連合会によると、私が教科書もノートもない生活を強いられていた敗戦の翌年1941年(昭和21)当時、
わが国の国民1人当たりの紙年間消費量は史上最低を記録している。その量はわずか2.8kg、当時の尺貫法でいう
1貫にも満たなかった。それが54年後の2001年(平成13)には約87倍の、242.8kgに伸長している。この消費量は
世界平均の1人当たり消費量52.kgの4.7倍に相当するという。

 コンピューター化がさらに進み、一般家庭にまでプリンターが置かれる時代になった。今日現在、紙の消費量は、
14年前のこのデーターよりさらに伸びていることだろう。
考えてみれば、戦時中はこの国の工場は何らかの意味で兵器生産に組み込まれたていたその工場が、戦後、
鉄砲からナベ・カマへ、民需品の生産に移り、競って新技術、新製品を開発したからこそ、この繁栄の時代を
むかえることができたのだろう。その意味でも平和の時代に感謝したいし、これからも守り抜きたいものだ。
同時に、紙の生産、消費だけをとってみても数々の課題が残されていることがわかる。第一に、これまで
あまりにも多くの世界の森林を、建築と製紙用に伐採した。今後ともその森林の、持続的な生態系に向けた
復活を図るべきこと、第二に広い意味での保全を図らなければならない。世界の肺といわれるブラジル、
シベリヤのタイガが減少している。南洋の焼き畑農業も心配だ。第三に冒頭に取り上げた紙のごみ問題がある。
このごみというよりこの使用済み紙を如何に多く再生、再利用して省資源化を図るか、これも大事なことだ。

 囲碁に「着眼大局、着手小局」という有名な格言があるが、大局ばかり語っていても仕方がない。典型的な、
もったいない世代に属する私としても、身近なところから断捨離を始めることにしよう。
その第一の項目は、やっぱり部屋と廊下の本と新聞のスクラップ、続いてP/Cで打ち出した有象無象の紙資料
ということになろうか。
             
      2015年8月21日、記す。


     




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