『津軽・・・紀行記』 武藤 泰文 (プロローグ) 太宰治の『津軽』は、 @ ある出版社から太宰に、『津軽について』の執筆依頼があったこと A 太宰の出生から、幼少時代の印象記憶 B 太宰の少年時代の体験記・回想記 C 津軽についての、歴史・民俗・風物についての先達の書で得た知識 D 蟹田から、竜飛岬まで、知人と一緒に訪れた紀行 E 金木から五所川原を経て、木造〜鰺ヶ沢〜深浦を訪れた紀行 F 金木から、小泊を訪れた紀行・・・そうしたことが記されています。 @ 7月に“熱中症”で、北海道西海岸・徒歩縦断旅を途中で断念した記憶が 蘇ってきた。そんな中で、津軽半島徒歩一周旅の計画を模索した。 A 夏の失敗を反省して、荷物を少なくする。 B 青森湾・蟹田駅をスタート〜今別〜三厩(みんまや)〜竜飛岬〜小泊〜 中里〜五所川原〜鰺ヶ沢〜深浦〜八森〜東能代・・・約・247kmである。 C 太宰治の文庫本・『津軽』をリュックのポケットに入れてゆくことにした。 (『津軽半島・徒歩一周旅・実績) (月日) (出発地〜到着地) (歩行) (累計) ・第 1日目 9月18日 蟹田〜平舘 12 12 ・第 2日目 9月19日 平舘〜今別 20 32 ・第 3日目 9月20日 今別〜三厩(みんまや)〜竜飛岬 23 55 ・第 4日目 9月21日 竜飛岬〜小泊 26 81 ・第 5日目 9月22日 小泊〜中里 26 107 ・第 6日目 9月23日 中里〜(五所川原)〜木造(きづくり) 24 131 ・第 7日目 9月24日 木造〜鰺ヶ沢 19 150 ・第 8日目 9月25日 鰺ヶ沢〜千畳敷 19 169 ・第 9日目 9月26日 千畳敷〜(深浦)〜横磯 25 194 ・第10日目 9月27日 横磯〜(八森)〜秋田白神 25 219 ・第11日目 9月28日 秋田白神〜東能代 28 247 ・ ・・11日間、歩行距離・約247km・・・であった。 ・ ≪9月18日≫(第1日目) 【太宰治の『津軽』の文面です】 『津軽半島の東海岸は外ヶ浜と呼ばれていて、青森駅からバスに乗って、 後潟〜蓬田〜蟹田〜平舘〜一本木〜今別を通り、終点の三厩(みんまや)まで、 約四時間の行程である。三厩からは波打ち際の心細い路を三時間ほど歩いて 北上すると、竜飛(たっぴ)の部落に到着する』 ≪太宰はまず、青森からバスに乗って、蟹田で精米所を営んでいる、中学時代の 友人・N氏を訪ねている。『津軽』の文中では、蟹田のN君宅に、N君の 知己(ちき)が寄合って、賑わいます。“津軽人気質”“津軽の産物・地形・民俗史” “文学・芸術談義”がなされたりします。また、翌日は、観瀾山にお花見に 出掛けたりします。観瀾山から、青森湾越しに夏泊岬が見えたり、平舘海峡を 隔てて、下北半島が間近かに見えたことを紹介している≫ 小生は、この、青森駅から蟹田駅までのコースは、5年前の『日本列島徒歩縦断旅 (西・日本海側コース)』で辿って歩いた道でもあり、今回の旅では、『蟹田(駅)』 までは、JRで行き、『蟹田』を出発点にすることにした。 13時半に『蟹田駅』に到着、そのまま、『平舘』に向けて歩き始めまた。 出発して間もなく、観瀾山の案内板が目に止まったが、目的が異なる旅なので、 所在だけを確認して素通りする。 野宿の荷物も無い旅であり、夏と違って日暮れが早い秋である。16時〜16時半頃 までに到着出来そうな宿を目当てに、早々と宿泊の予約を取り付けます。 “不老不死温泉”という宿で予約が取れた。平舘村の入口である。工事の関係者で 宿が確保出来るか心配だった。 ≪9月19日≫(第2日目) ≪太宰の『津軽』によれば、観瀾山でお花見を楽しんだ後、太宰はN氏と、バスで 蟹田から平舘を通り、今別に向かっている≫ 小生は平舘から、そのバスが通ったであろう、海岸沿いの道を歩いた。 現在はその平舘村の海岸に沿った道に並行して約10kmほどのバイパスが 作られている。歩く旅では、こうした道は、”旧道”の方が情緒があって 楽しいものです。 下調べをした別の宿や、道の駅は、宿泊した宿からほど近い、30分〜1時間 足らずのところにあった。”道の駅”は、特産物の販売と軽食を扱っていると いうものです。 道の駅を過ぎた辺りから、松並木が続く、快適なコースとなった。 平舘海峡越しに下北半島が大きく拡がって見える。白い船が舳(へさき)に 水飛沫(しぶき)を上げて航行しているのが分かる。下北半島の景勝地の一つ、 “仏が浦界隈”を巡る観光船なのでしょう。 ちょっと面白いと感じたのは、この道の名称が、『松前街道』と案内されて いたことです。 『松前』と言えば、北海道の地名である。歴史的な理由があっての 呼び名だろうか・・・。 “高野ア”というところに、展望のいい小さな食堂があったので、お昼にした。 ここからは、津軽海峡が一望できます。北海道がグ〜ンと近くなったように 感じるところであった。 高野アを過ぎると少しずつ、民家が増えてきて、“今別”に入いることになります。 今別は、北海道新幹線の工事や新幹線駅の誘致で活気があるようだった。 市街地の宿は、長期的な工事関係者の人たちの宿泊予約で一杯で、 今別町の役所の観光課で市街地を外れた宿泊施設を紹介してくれた。 ≪9月20日≫(第3日目) 【太宰治の『津軽』である】 『波打際に大きな岩ありて、馬屋のごとく穴三つ並べり。是、義経の馬を立給いし 所となり。是によりて此の地を三馬屋と称するなりとぞ・・・』、という文面で 三厩(みんまや)の地名の由来が紹介されています。 また、『風祈り観音の逸話・・・風がおさまって、義経が松前に渡った逸話、 弁慶・義経の馬の窪みの逸話』を紹介しています。 ≪太宰は、今別で手に入れた“2尺の鯛”を、“三厩の宿”で“丸ごとの姿のまま” 眺めながら賞味しようと、塩焼きにして欲しいと、宿の娘に頼んだところ ちょっとした食い違いがあって、鯛が頭も尻尾もちょん切られ、更に、 五つに切り刻まれて料理されてしまったという、苦笑いの記述があります≫ 今別から三厩までは、津軽線が並行するように走っているので、平坦な地形が 広がっているかと思っていたら、津軽半島の脊梁部の中山山地が海岸まで 迫ってきていて、その北端を津軽線が通っているというところです。 風もなく、穏やかに津軽海峡が広がっています。そしてその先に、 北海道・渡島(おしま)半島の山影が青味を帯びて見えます。7月に通った、 “竜飛岬・192km・北海道の最短地点”≪白神岬≫は、どの辺りだろうか・・・ 少し懐かしく、少し悔しく・・・ 小さなアップ・ダウンの道が細々と続いていて、漁船を停泊させている、 小さな入り江がポツン、ポツンとある。その部落ごとに、これまた小さな “祠や鳥居”がある。海での安全を願ったものなのでしょう。 土地の人達は、見かけない“イデタチ”の小生に興味を覚えるのか、 声を掛けてきます。 地形・海流の関係なのか、この辺りから竜飛岬にかけての海で、 “大きなマグロ”が釣れたりするそうです。≪ご亭主が、マグロを釣上げた≫と 携帯で連絡が入ったから、船着き場に迎えにゆくところだ、というご婦人に 出くわせました。 【太宰治の『津軽』です】 『ここは本州の極地である。この部落を過ぎて路はない。あとは海に転げ落ちる ばかりだ。路が全く絶えているのである。ここは本州の袋小路だ。 読者も銘記せよ。諸君が北に向かって歩いている時、その路をどこまでも さかのぼり、さかのぼり行けば、必ず、この外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ 狭くなり、さらにさかのぼれば、すっぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に 落ち込み、そこに於いて諸君の道は全く、尽きるのである』 いつの頃からか、一度行ってみたいと思っていた、“竜飛岬”です。 灯台の建物の側の展望台から、津軽海峡が一望出来ます。海峡の海面下を 津軽海峡線が走っていると思うと不思議な気分になります。また、ここは ≪風の通り道≫でもあります。 少し下がった道路脇に“モニュメントと石の腰掛け”があって、備えつけられた “赤いボタン”を押したら、石川さゆりさんの『津軽海峡冬景色』の歌が 流れてきました。 ≪9月21日≫(第4日目) 【『津軽』によれば】 ≪太宰は、竜飛岬から歩いて三厩に戻り、三厩から船で蟹田のN氏の家に 戻っている。その後、定期船で青森に出て足早に、川部〜五所川原と列車を 乗り継ぎ、生地である、“金木町”に寄っています。津軽半島の中央には、 梵珠(ぼんじゅ)山脈が立ちはだかっていて、大迂回して、生家に戻らなければ ならなかったのが、当時の津軽の交通事情・道路事情だったのでしょう。 太宰が竜飛岬から往路を戻り、金木に向かったのは、当時、竜飛岬から、 小泊に抜ける路が無かったからなのか、あるいは、『津軽』の中でも、 度々書かれているように、“防衛上の秘密”があったからかも知れません≫ 展望台の売店で、小泊への道を聞いてみた。道の駅や、地底博物館がある 海岸へ向かう道を行くのかと思いきや、曲りくねった山の中を入って行く 道でした。危うく、迷って行き止まりの袋小路に向かってしまうところでした。 風力発電所の大きな風車の設備の建物があるかと思えば、野生の猿が 道路に飛び出してきたりします。曲りくねった山中の道を切り開いた道です。 時々、振り返る度に、竜飛岬の白い灯台の建物が段々遠く、小さく、最後は “ゴマ粒”のようになり、視界から消えます。 【再び、『津軽』です】 ≪竜飛岬から、一旦、金木に戻った太宰は、金木〜五所川原〜木造〜鰺ヶ沢 〜深浦まで行き、再び、金木に戻り、兄や長兄の姪・陽子たちと一緒に 楽しんだ後、最終章で、“たけ”が小泊に居ると言うので訪ねて行ったことを 記述しています≫ “たけ”は、太宰が3歳から8歳まで、金木にいた5年間、14歳から19歳まで、 『子守役』をしてくれた『越野たけ』のことです。 小生の歩いたコースは、太宰の『津軽』とは、ここで、“順序”が逆になります。 竜飛岬から小泊の町へは、一本道でした。小さな漁港町という感じで、太宰が “たけ”を訪ね当てた“運動場”も太宰の“記念館”も、そして『宿』も、すぐ 見つかりました。 記念館に隣り合わせるように小学校と運動場があり、運動場の片隅に、 太宰のモニュメントが立っています。 文庫本を持ち歩いて旅をするのも楽しいものです。 【太宰の『津軽』の文面です】 『「修治だ」私は笑って帽子をとった。 (“修治”と言ったのは、太宰が本名・津島修治を名乗ったものです) 「あらあ」、それだけだった。笑いもしない。真面目な表情である。でもすぐに、 へんにあきらめたような弱い口調で、「、はいって運動会を」と言って、 “たけ”の小屋に連れて行き、「ここさお座りなせえ」“たけ”の傍らに座らせ、 “たけ”はそれきり何も言わず、きちんと正座して、そのモンペの丸い膝に ちゃんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見ている。けれども私には 何の不満もない。まるでもう、安心してしまっている。 足を投げ出してぼんやり運動会を見て、胸中に一つも思う事が無かった。 もう、何がどうなってもいいんだ、というような全く無憂無風の状態である。 平和とは、こんな気持ちの事を言うのであろうか。もしそうなら、私はこの時、 生まれてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい・・・』 (『津軽』のクライマックスですね。年齢を当てはめて計算すると、28年ぶりの 再会ということになるのでしょう・・・) ≪9月22日≫(第5日目) 【『津軽』文中での『岩木山』の紹介部分です】 ≪『津軽』の中で、太宰が生地、金木から、姪・陽子とそのお婿さんたちと、 近くに修練農場があるという、小高い丘にピクニックに行きます。その丘に 辿りついたところで、 『や! 富士。いいなあ』、と私は叫んだ。富士ではなかった。津軽富士と 呼ばれている、1625メートルの岩木山が、満目(まんもく)の水田の尽きる ところに、ふんわりと浮いている。実際、軽く浮かんでいる感じなのである。 したたるほど真っ蒼で、富士山よりももっと女らしく、十二単衣(ひとえ)の裾を、 銀杏の葉をさかさに立てたようにぱらりとひらいて左右に均斉も正しく、静かに 青空に浮かんでいる。決して高い山ではないが、けれども、なかなか透きとおる くらいに、嬋娟(せんけん)たる美女である≫ 金木からの岩木山をこう言い表している。この一文は、深田久弥が、日本百名山 の紹介で、同文をそのまま使って、岩木山を紹介しています。 小泊から、十三湖の北岸に沿った道を中泊町・中里に向かう道からの岩木山は、 まさしくこの表現にぴったりの光景です。北面からの岩木山は均斉がとれて います。周囲に重なる山影もないため、尚更その美しさが引き立ちます。 ≪9月23日≫(第6日目) ≪竜飛岬から、金木に戻った太宰は、金木でひと息ついた後、五所川原から、 木造〜鰺ヶ沢〜深浦まで進み、再び、金木に戻っています≫ 【太宰の『津軽』の中の”木造”の印象です】。 『木造は、“コモヒ”の町である。“コモヒ”というのは、むかし銀座で午後の日差しが 強くなれば、各商店がこぞって店先に日よけの天幕を張ったろう。そうして 読者諸君は、その天幕の下を涼しそうな顔をして歩いたろう。そうして、 それはまるで即席の長い廊下みたいだと思ったろう。つまり、あの長い廊下を 天幕なんかでなく、家々の軒を一間ほど前に延長させて、頑丈に永久的に 作って」あるのが、北国の“コモヒ”だと思えば、たいして間違いない』 ≪9月24日≫(第7日目) ≪太宰は、木造から更に西へ向かい、鰺ヶ沢〜深浦へと足を伸ばしています。 しかし同地には特に親しい知人もいなかったのでしょううか、足早に金木に戻り 、小泊の”たけ”を訪ねています。 太宰にとっては、『津軽』の旅は、“たけ”との邂逅(かいこう)が、最大の 楽しみだったのかも知れません≫ ≪9月25日≫(第8日目) 深浦町の北端の千畳敷まで進んだ。午前中は暑いくらいだったが、 お昼ご飯中に天気が急変、横なぐりの雨と風、嵐になった。小降りになって出発、 今度は車の水飛沫(しぶき)のシャワーの洗礼を受けた。今回の旅の 初めての雨である。 ≪9月26日≫(第9日目) 深浦町・横磯まで進んだ。深浦辺りは、脱北の舟が漂流したりするところです。 右手には穏やかな日本海と、磯が続いている。漁業が本業で、片手間に 民宿を営んでいるような感じの宿でした。夕食のメインは鯛の塩焼きで、 豪華でした。 ≪9月27日≫(第10日目) 相変わらず、右手に日本海と、磯浜が臨まれ、左手は道路に並行するように、 五能線が山襞(やまひだ)の間から現れたり隠れたりする道です。 五能線の大間越駅と岩舘駅の途中で秋田県に入ったことになります。気のせいか、 重苦しかったような景色が、明るくなったように感じます。目立った山があるわけでは ありませんが、白神山地が広がっているところです。秋田県・八峰(はっぽう)町まで 進みました。今日は当地では一流と思われる温泉ホテルです。足腰をマッサージして、 フィニッシュに備えます。東能代まで残り、27kmです。 ≪9月28日≫(第11日目) 一歩、一歩、民家が増えて、ゴールが近づいたことを感じます。ルートに面して “果樹園”があったので、休憩がてら備え付けのテーブルで、“リンゴ”“ブドウ”を 頂きました。 例によって、「どこから来たの?」「どこまで行くの?」の話しです。 そんなつもりはなかったのですが、「試食用だから、サービスですよ」と いうことでした。『タダ食い』をしたみたいな気分でした。 能代駅を通過して、5年前に通った“8号線”まで進み、おぼろげな記憶の中の 道を、最終目的地・東能代駅をめざしました。 東能代から、JRで秋田まで行き、駅近くのビジネス・ホテルに宿泊し、翌日、 “こまち”“ひかり”を乗り継ぎ、帰宅しました。 (エピローグ) 太宰の『津軽』の≪あとがき≫にありました。 @ 小山書店の委嘱を受けて、昭和19年(1944年)5月、太宰は36歳の時、 津軽に出掛けている。 A 出版社としては、『津軽風土記』に重点を置いて、書いて欲しかったのかも 知れません。 B そんな旅の中で、太宰は、30年ぶりに“たけ”と会えました。 読者は、『津軽』を“何に共鳴”しながら、文面を追ってゆくのか・・・自由である。 私は、『“たけ”との再会』、部分が一番印象に残った。 “小泊”の小学校の運動場に隣接して、≪太宰記念館≫があります。その前の 小さな庭に、正座をした“たけ”と並んで、ゆっくりと、膝を曲げてくつろいだ様子の “太宰”の二人の銅像があります。運動会を見ているところでしょう。 太宰をして、≪私はこの時、生まれて初めて、心の平和を体験したと 言ってよい・・・≫と言わしめた時だったのでしょう。 『自己否定』の塊りのような太宰の人生で、ホンの束の間の≪自己肯定≫の 時だったのかも知れません。そんな感じを受けます。 通りかかった学校の運動場の片隅では、5人の男の子・女の子が、 サッカー・ボールで遊んでいました。 今回の津軽半島一周の旅は、前半は太宰の『津軽』の足跡を訪ねる旅であり、 後半は岩木富士を愛(め)で、思いがけずも、津軽平野が”瑞穂の国”の 『米どころ』でもあるということを知ることが出来ました。そして、 五能線に沿った緑豊かな”白神の山塊に眺め、日本海の美しい海岸と 豊かな海の幸を賞味することが出来た、大変得るところの多い旅になりました。 併せて、熱中症で不本意に終わった、7月の北海道西海岸徒歩縦断旅の悪夢を 払拭出来た旅になりました。 (完)