新・積み残しの記 17   三字熟語で観る世相(上)                   
                           
                                    秋 たける





今回のテーマは亮子さんが選んだ「申・猿・去る」である。同音異議の漢字が
2字と動詞が1語の、おもしろい組み合わせだ。この組み合わせを眺めている
うちに、わたくしは真っ先に日光の東照宮陽明門に飾られている「三猿」を
思い出した。三匹の猿が両手でそれぞれ両目、両耳、口を押さえて、所作で
「見ざる・聞かざる・言わざる」の処世術を教えている、あの像である。
悪事は見るな、耳を貸すな、口は災いの元、人の悪口はいうな、ということだろう。
世の中に「知らぬが仏、聞いて極楽観て地獄」というたとえもある。江戸時代なら
この「三猿」の教えは、庶民のもっとも安全な処世術だったことだろうが、今は違う。
政治家のやることをよく見もせず発言も聞かず、こちらの意見を言わなければ、
この先この国をどこに連れて行くのかわかったものではない。
今は時の為政者がなにをやろうとしているかしっかり見て、どんな発言をしているか
聞き、それに対するこちらの意見もはっきりいう、そんな民主主義の時代である。

さて、この冬号の合評が始まっている年末には、今年も日本漢字検定協会が
公募する「今年の漢字」が発表されることだろう。でも一字漢字が躍るのはこの時
ぐらいで、普段は四字熟語全盛である。 
去る10月22日、朝日新聞の夕刊の「素粒子」を読んでいて、こんな記事を見つけて
どっきりした。
「武器も売りますアベノミックス。防衛産業?軍需産業ではないの。積極的平和?
海外派兵というのではないの。国を愛する心の涵養、だそうだ。国家安全保障として。
一億一心、滅私奉公、七生報国。心に浮かぶ四文字熟語。「全体としてコントロール
されている」。ひょっと思いつき、汚染水を国民と入れ替えてみる。わが妄想であれ。」
 蛇足は重々承知の上で、筆者が素粒子に代わって、汚染水と国民を入れ替え
(私の内閣の下で)を補ってみると、このようになった。
「全体として(国民は私の内閣の下で)コントロールされている」
 衆参のねじれは、先の参議院議員選挙で解消された。安倍自民党は、今は何でも
思うがままできる体制になった。本音だろう。
 
「素粒子」には失礼だが、これらの四文字熟語はお手の物の、資料室の新聞記事から
拾っただけで、これらの熟語が当時、国民にどれほどの重圧を与えていたか、その
実感はなかろう。先の戦争は、わたくしが国民学校初等科に入学した昭和16年の
12月8日、その未明の真珠湾攻撃からはじまった。
それから敗戦までの3年9か月、狂気のような四字熟語が骨の髄までたたき込まれる
軍国主義のなかで、教育された。一億一心=一億人が一つの心になれ、
滅私奉公=自分を殺して公に奉公せよ、七生報国=七回生まれ変わってでも、
国の恩義に報いよ、楠正成のように。挙国一致=国を挙げ、全国民一致してせよ。
異論は一切許されない。臥薪嘗胆、艱難辛苦、「われに七難八苦を与えたまえ」と、
神に誓いを立てた山中鹿之助に倣え。神国日本は鬼畜米英に最後に勝つ…。
学校の講堂を暗くして見た映画のニュースの中の東條英機、校長先生も新聞も、
大和魂を謳歌する四字熟語の羅列だった。
そして敗戦、一朝にして驚天動地し、石が浮いて流れ葉っぱが沈む世の中になった。
誰の言うことを聞けばいいのか。誰もが、精神的にも路頭に迷った。



こんな暗い過去の背後霊が取りついている四字熟語よりも、わたくしはどこか無責任な
ところがある三字熟語が好きだ。34号で取り上げた真善美にしても、真と善、美の
三文字がぽんと、目の前に無造作に投げ出されているだけで、そのどれを優先しろと
いうわけでもない。前掲の国技館の写真は今年の、まだ残暑の厳しい8月28日に
撮った物だが、この国技館に併設されている大相撲博物館に、おなじみの「心技体」を
大書した額が飾ってあった。ここでも心と技、体の三文字が羅列されているだけで、
どれから練磨すればいいのか示されていない。またあとひと月もすれば、新しい年を
迎えるというこの時期は、何となく天地人とか、雪月花、松竹梅などという見た目にも
美しい三字熟語が思い浮かでくる。この天地人にしても、天と地、人という小学生の
二年生でも読める三字が、多分、高さの順に並んでいるだけで、何をいわんとしている
のか、深く考えてみたことはない。
そろそろ年賀状の準備もしなければならないが、この機会に暫し、天地人と一緒に
遊んでみることにしよう。何か新しい世相が見えてくるかも知れない。

今回は、フリー百科事典「ウィキペディア」で「天地人」を引いてみることから始めた。
便宜上、ここに書かれて説明文に順番を示す番号をつけた。

 @ 天と地と人。世界を形成する要素。宇宙間に存在する万物。三才。       
 
 A 三つの物の順序や成績の序列などを示す語。飲食関係の注文品などにおける
    「松竹梅」に相当する。                          
 
 B 孟子『公孫丑章句上』一節の「天時不如地利。地利不如人和」(天の時は地の利
   に如かず地の利は人の和に如かず)に由来する慣用句の省略形。
 
 C 天地人(小説) 火坂雅志著の直江兼続を主人公とした歴史小説。天地人
   (NHK大河ドラマ) 上記小説を原作とした、2009年にNHKで放送された大河ドラマ。

改めて広辞苑を開いてみた。「天地人」の立項はなく、てんち【天地】@天と地と。
あめつち。天壌。A宇宙、とあった。大辞林にも、見出し語として「天地人」の立項は
なかったが、【天地】のなかに、「天地人」の小項目があり、「ウィキペディア」の@、Aと
ほぼ同じ説明があった。Cの火坂雅志の小説「天地人」とそれを元にしたNHKの
大河ドラマについての記載がないのは、発行された時代が違うので、当然だろう。
問題は「ウィキペディア」のB、天地人が「孟子『公孫丑章句上』一節の「天時不如地利。
地利不如人和」(天の時は地の利に如かず 地の利は人の和に如かず)に由来する
慣用句の省略形」であるという新説である。わたくしにはその真偽を検証する能力は
ないが、その断定が気に入った。人は天に命を受けたと奮い立ち、いや天に見放された、
といって諦める。この天を自分の都合のいいように借りるのは、中国伝来だと思う。が、
われわれは今も、ことが上手く行かないと、時代や地の利の所為にする。いやそうでは
ない、問題は人の和、努力なんだ、というそのヒューマニズムというか、人治主義と
いうか、この考え方は正しいと思う。天地人は高さの順位からいうと、天、地、人の順
かも知れないが、それより大事なのは人、その次が天地なんだ、ということだろう。
同じヒューマニズムでもヨーロッパのそれは中国とは違う。わたくしの自己流の解釈かも
知れないが、聖書のなかで神が、天、地、人の順に創造し、人は地上に満ちて、神自身
に代わって、人以外の生き物を支配せよ、と説いていると思う。天地人を、この支配
被支配の関連で順に並べると、最上位は万能の神、その下に神の付託を受けた人間、
そのさらに下が天地ということになる。この神の付託を受けて以来、人間はこの地球上に
増え続け、自分たちの都合で動植物を殺して食べ、着る物に使い、資源をもとめて
地下まで掘り返している。天災地変というが地球の温暖化のその遠近の原因は、
増え続けた人間の営為にあるのではないか。マルサスの人口論によると、人口は
制限されなければ幾何級数的に増えるが、生活資源は算術級数にしか増えない、
だから新たな生活資源、すなわち食糧を生産すべき農地を開墾しなければならない。
しかしその開墾すべき余地は、地球上にはないのが現状ではないか、と話は振り出しに
もどってしまう。人間、自然支配論の限界である。日本人は古来、人間が天地、万物の
上に立つなどという大それたことは一度もない。日本人が日々拝むのは、唯一無二の
絶対神ではない。祖先、偉人とともに毎朝上るお天道様、大地、天から降る雨、
恵みを与えてくれる海、草や木、動物たち…生活の場を構成している森羅万象である。
そのどれが欠けても人は生きていけない存在だという自覚がある。自然は支配するの
ではなく、その声を聞き、そこから生き方を学び、八百万の神として祀り、感謝をささげ、
この先も共生すべき対象である。この天地人観を日本教と呼ぶならばそれもよし、
この全地球に広がればいい。小題を三字熟語で世相を観る(上)とした。三字熟語の
話らしく三字熟語の一つ「上中下」を、昔、本の発刊が数冊(巻)に分かれる時に「上巻」と
なっていたのを思い出し、そんな使い方をした。
次回はその「上中下」と遊んでみよう。

                  2013年11月22日、記。
      






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