「少女像」 田村 道子 深い森へと導く林道の入り口に、その美術館は立っていた。 地元出身で一躍人気の出た画家を村起しの一端に利用しようとして5年前にオープンし、高まった芸術指向に 乗って3年程は近所の温泉とのパックツアー客で賑わい、旅行シーズンは入場制限が必要なくらい長蛇の列が 出来た事もあったが、熱し易く冷め易い庶民の流行の例に漏れず、今はほとんど訪れる人もない。鬱蒼と茂る 木々の中にまるでヘンゼルとグレーテルに出てくるお菓子の城の様に、原色を使ったモダーンアートの建物が 唐突に浮き出ている。雨のしみや枯れて変色した蔦で少しは雰囲気に馴染み始めて来ているが、自然と一体に なるにはかなりの年月がかかるだろう。 「なる程、これが山田孝の建築かあ。ユニークだけど居心地悪そう。」 目的地を告げてから到着するまで運転手に延々と講議を聞かされたおかげで予備知識をたっぷり仕入れた悠は、 何でも見てやろうと言わんばかりの意気込みで晴海を促し、回転ドアを押した。 「お母様を待って差し上げなくちゃ」 晴海はちょっとどぎまぎした様子で、タクシーを降りる由起子に手を差し伸べたが、由起子は手を降って断ると、 その動作を補う満面の笑みを浮かべた。新米の嫁姑は気を遣い過ぎて疲れる。 中は外見と対照的に気持ちの落ち着く薄い暖色の壁と天井、同じベージュ系の絨毯が敷き詰められたこじんまり した部屋がジグザグに繋がり、自然がそのまま庭として機能するようにその一面がガラス戸になっている。 運転手の話だと決して直射日光が絵に当たる事のないような角度に設計してあるらしい。常緑樹の茂みの中では 入るとしてもせいぜい木漏れ陽程度で、それがまたその時々で思わぬ効果を醸し出し、この日も秋の残照が 刻々と絵に微妙な変化を与えていた。 「さすがだねえ、晴海、人と建物は外見で判断しちゃいけないね。これは見る価値がある。おふくろに付き合って 来てみてよかったよ」 「あの外見も建てた時点よりずーっと先を想定して考えてあると思うわ。山田先生は並の発想の持ち主じゃ ないから。こんな田舎村の依頼を引き受けるなんて世程下村一郎という画家が気に入ったのね。あらごめんなさい、 お母さま、田舎だなんて、、、」 「ど田舎に間違いないよ、ね、母さん。30年ぶりかあ、でも僕は赤ん坊だったから覚えている筈ないよな、 アハハ」」 3人揃って鑑賞するより好き勝手に時間をかけたいと言う事で意見が一致し、入り口と出口を兼ねる玄関ホールに 2時間後と約束した。 作品の展示はこれまた画家の発掘者山田孝の指示で時代別ではなくテーマ別の「風景」「静物」「群像」「肖像」と 分れ、最初の「風景」はそれでも並んで見る事もあったが、見覚えのある題材に気を取られていると、何時の間にか 由起子は一人になっていた。 思い当たる場所や顔の前でかなりの時間を費やした後、最後の「肖像」の間の入り口で躊躇っていると、突然背後で 声がした。 「由起子さんでしょう、間違ってたらご免なさい、あらやっぱり。入り口で見かけた時からもしかしたらと 思ってたのよ。 私、あかね、覚えてるよね」 老婆を乗せた車椅子を押す痩せぎすの中年女性に、今絵の中で再会したばかりのおかっぱ頭の中学生のイメージを 探すのは無理な様でも、その興奮でキラキラ光る瞳と笑った時のえくぼは、紛れもなく一郎の妹のあかね。 「久しぶりねえ。最後に会ったのはいつかしら。兄の葬式に見えるかと思ったけど、後でもらった手紙では病気で 入院してたとか。でも今はとても元気そう、よかった。わざわざ絵を見に来てくれたの? 地元出身じゃなく係累も いないとこんな田舎に用はないものね。私? 平凡な主婦。結構来るのよ、ここは。母の運動も兼ねて週2回くらい。 最近はほとんご見学者はいないけど、今日は珍しく都会風の服装を見かけたので、興味津々でじろじろ見てたら、 あっと思ったのよ。お母さん、由起子さんよ、わかる? 一郎兄さんの幼馴染み。武さんと3人、いつも一緒で、 私が追い払われながらも付きまとっていたあの娘さん」 顔が向かいあう様に車椅子を調整してそっと促しても、老婆の大きく開かれた目は盲人の様に何かの存在を認めた 気配はなかった。 由起子は衝動的に手を伸ばして膝の上に几帳面に置かれた老婆の骨張った手を握りしめた。反射神経かも知れない けれど、かすかに握り返して来る。今まで不思議なくらい冷静に一郎の事は処理して来たのに、変わり果てた生身の 分身に触れた途端、どっと涙が溢れて来た。何の涙か分からない、あまりにも雑多な思いが突然捌け口を得て 我れ先にと争ってほとばしり出た涙。 「由起子さん、ちょっと待ってね。母を気に入りの絵の前に置いてくるから」 由起子のそういう反応を知ってか知らずか、あかねは堅実で注意深い、それでも手早い動作で車椅子を回し方向を 変えると、部屋のほぼ中央にとめた。 「母を描いた絵は結構あるのに、あれが一番好きね。別の絵の方へ動かそうとすると抵抗するのよ。目がちゃんと 見えているかも分からないのに。きっと心の目でみてるんだろうね」 玄関ホールの一角にある休憩所に落ち着くと、あかねは昔と変わらぬ率直さと快活さでこの長い空白を埋める仕事に 取りかかった。 「息子さんがいたよね。さっき一緒だった若者がそう?へえー、新婚旅行で由起子さんと合流?夫婦共建築家? じゃきっとこの建物も楽しめるよ。後でゆっくり御挨拶するとして。急いでないんでしょう?」 あかねは見合い結婚し、大きな変動のない人生を送って来た事、母を引き取った時期もあったけど、今は設備の 整ったホームに入れ、週2回こうして見舞いがてら連れ出している事を語った。 「山田孝が兄の絵を誉めてくれたおかげで突然評価が上がり、作品が売れだしこんな美術館まで建ち、母に良い 思いをさせる事が出来て有り難いよ。慾を言えばその3年前、兄の生きている内だったらねえ。でも兄さんは 世間の評判なんか関心がなかったから。 由起子さんも大変だったねえ。武さんと相思相愛で結婚した2年後に自動車事故で未亡人、赤ん坊と2人残されて。 実家も嫁ぎ先も資産家だからお金に不自由はなかったかも知れないけど、女一人病身で子供を抱えて生きて行くのは 並大抵じゃなかったでしょう。でも頑張った甲斐があったね。あんなに立派になって。 あ、日が陰らない内に母を連れて外を廻ってくるね。「肖像」の間はまだでしょう?由起子さんの絵ももちろんあるよ、 ごゆっくり、じゃ後で息子さんに紹介してね」 あかねの出現で「肖像」は後回しになった事がかえって心の準備を与えてくれた気がして、由起子は躊躇わずに 部屋に足を踏み入れた。 母親の肖像画は確かに何種類か展示されていて、あかねが車椅子をとめた絵は初期の作品で40代くらいの女盛り、 農作業に励む母親の俯いた横顔を生き生きと捉えている。 そしてその隣の小さな油絵の自画像に移った時、由起子は足が竦んで動けなかった。自分が生涯たった一度、 あれ程の情熱をかけて愛した男。そしてもっと強い欲望の為に自分と生涯を共にする事を拒否した男。絵を描く為に 自分を捨てた男。その愛も嘆きも葛藤も絵を描く衝動に変えた男。そのデフォルメされた目は今も由起子を、 答えられない問いを込めて見据える。30年前と同じ激情に襲われ、由起子の足は諤々と震えた。思わず目を そらした瞬間、その隣に並ぶ「少女像」と名付けられた水彩画を目が捉えた。 見る決心をつけるのに30年かかった絵。 「少女像」、それは淡いパステル調のヌードで、青々と草の生い茂った野原に両肘をついた格好で腹這いになった、 若い長髪の女性像で、顔は半分覆いかぶさる黒髪ではっきりしない。ただ口元にはにかんだ笑みがあり、 指先は草を弄んでいる。そしてこの草原、この笑み、このポーズ、全て由起子の頭から終世離れる事のなかった イメージ、夕陽が野原を染めたひと時、原始人の様に裸で草の上を転げ回わり、そして始めて愛を交わした後、 一郎の求めに応じてモデルになった由起子の「像」。 「私が一番美しかった時」思わず知らず、どこかで読んだ詩の一節が口に出た。 「きれいだ」一郎の声が木霊する。「ほら、笑って」 「だめだよ、動いちゃ」 恥ずかしくて、嬉しくて、どうしても指が草をむしり取る。 「いやー凄い人だねえ、君の先生は。普通は芸術性と機能性をバランスよく組み合わせようとするもんだけど、 彼は全く気にしてないね。機能だけで味も素っ気もない、事務員が設計したのかと思う様な部屋があるかと思うと、 何の役にも立たない空間が、ただそのためにある」 「でしょう?トイレなんかいつまでも座ってたいくらいよ」 「僕は絵の鑑賞眼は大してないけど、何故彼がこの画家をこれ程気に入ったかわかる気がする。二人とも 他人の評価はいらない、鑑賞者はたった一人、自分だけ、それもとことん厳しい」 階段、踊り場、トイレから事務所、倉庫まで見て廻ったらしく、遅れて入って来た悠と晴海の会話で我に返った。 息子の一郎へのコメントに思わず笑みこぼれる。自画像を見た時の心の動揺は「少女像」で奇妙に静まり、 2点あった若い由起子の絵のそれとわかる顔立ちに、3人で笑う余裕も出来た。「少女像」が由起子とは想像する 理由もない。(悠、あの時私は生き、そして死んだの) 由起子は心の中で息子に呟いた。 「丁度タイミングよかったみたいね」 最後は一緒に見終えて休憩所に座ろうとした時、あかねの声がした。落日を浴びて一つの輝く固まりと化した 車椅子を玄関へ押し入れようとした時、駆け寄った悠が回転ドアを支えた。 「有難う、よく気が付いてくれて、息子さんよね、えーとお名前は、、、、、」 あかねは振り返って眩しそうに目を細めた悠を見て、息をのんだ。