多布施川の橋から学ぶ佐賀ん町の歴史(2 下) 鶴田征三
投稿者:新風児 投稿日:2011年10月27日(木)
お堀端を案内してくれた藤戸康昭氏と別れ、彼が住んでいる城内近辺の多布施川と日没の前のひと時を撮影
して回った。鶴田さんの記述にあるように多布施川は住宅街の中を次々に向きを変えて流れて行きます。
その中で目に止まったのは仕掛け網があることでした。学生時代、洪水があった時など、このような竹の骨で
できた仕掛け網が城南中学校の門の前のお堀に建てられていたものです。
多布施川の橋から学ぶ佐賀ん町の歴史(2 下) 鶴田征三
通学橋、もう一つの赤松橋
当時の佐賀高校正門のまん前にかかっていた橋。当時は石橋だったが、現在は車が東へ回りこみやすい
ように拡張されている。川はここで東へ向きを変え、県会議事堂・県庁の裏手(南側)を200mほど流れて、
また南に向きを変え南下する。この位置に前述の貫通道路の橋と同じ名の赤松橋があった。この間ずっと
県庁の裏手に当り、川の水深・幅も結構あり、また砂地の所・岩場の所・石垣の所等変化に富んでいて、
私のメインの泳ぎ場また漁場になっていた。
このもう一つの赤松橋は当時の佐高の北東の角に位置した通用門のすぐ近くにあって、私は通学にこの橋を
使っていた。佐高の正門からこの通用門に至る間の道沿いは当時、南側が高校の万代塀、北側がゲズ(からたち)
の生垣とお役所のぼろい建物が並んでいた。ゲズは当時も高校の近辺の道路や、私が住んでいた城内にあった
佐賀藩の馬術指南役(倉永家)の屋敷跡の前の生垣として残っていたが、もっと昔はゲズ垣があっちこっちに
あったらしい。もっとも当時私はゲズとは言っていなくてカラタチといっていました。カラタチには
アゲハチョウが集まる。葉に卵を産み幼虫の毛虫が葉っぱを食べ、大きくなってサナギになり、成虫に羽化して
飛び回る。幼虫は触ると頭から黄色い角を2本だし甘い臭いがした。などの観察をしていました。また
カラタチにはトゲがありますが、モズ(鵙)が捕まえたトカゲやカエルなどを突き刺して保存していたのを見かけ、
これがモズの早贄(はやにえ)かな、と観察していた。現在ゲズ垣はまったく見当たらないようです。
多布施川はこの赤松橋から佐高に沿って南下しますが、右手が佐高・左手が旧成美高女跡です。この辺の川は
比較的砂地が多かったのですが、変化に乏しく遊びにはあまり面白くなかった。ただ当時佐高の東門(グランド側)
があって、ここを出ると趣のない橋がかかっていました。この橋を渡ると旧成美高女のグランドに入り、それを
東に突っ切って塀を乗り越えると私の家だったので、寝坊して遅刻しそうなときは時々この逆ルート使っていた。
この橋から後述する栄城橋までは橋がなかったと記憶しています。現在この川沿いの道は車の一方通行になっています。
川はさらに南下していると、旧成美高女の校舎南端の辺で、お屋敷・一般の家がある地区にぶつかって、東に向きを
変え、さらに南に下って、また東に流れるというやや曲がりくねった流れ方をしますが、右側は一般の家とその庭が
あり、川にはタナジが設けられていた。左側は学校跡(一部佐賀大学農学部が使っていた)ということで、
私からすればほとんど人気がなく、自然が荒らされていない秘密の場所であって、心置きなく川遊びをしていました。
栄城橋
川は博物館・美術館の北側の道路の北沿いに東に流れ栄城橋に至る。現在はこの北側に佐賀テレビがある。この橋は
私が小学生・中学生時代に毎日歩いて通っていた橋で、「北の堀」に新しく架けられた「くすの栄橋」を通って現在の
赤松小を通過し空港近くまで一直線に南下できる道路の上に架かっている。
当時、この橋で増水時はジプ(ジュブ、四つ手網)の引きさんが網を手繰り上げ、魚を獲るのを見ることができた。
この橋の辺から、当時の赤松小西通用門・城南中の正門に至る道路は台風の大雨でよく冠水して橋や道路の位置が
不明瞭になり、小学低学年生を高学年生が引率して学校に行っていたことを覚えています。いまの時代では考え
られないことでしょう。
多布施川はこの橋を通過した後、北に東に折れ曲がり北上する。逆流しているのではないかと不思議に思われるが、
城内をU字型に流れています。栄城橋通過あたりから、また民家や工場や商店が川沿いに密に見られた。中・高と
一緒だったM・K君はこのあたりに家がありました。
うまや橋(厩橋)、本丸橋
多布施川は栄城橋を通過後、曲がって、山の方角・北に流れる。城内1丁目・2丁目の境を北上する所に架かる
橋が厩橋。石橋であるが中央部がやや高い弧状になっていたので、この辺の人達と私は太鼓橋と読んでいた。
この橋通過後、川は東に曲がったり、また北上したり、くねくね曲がりながら現在の市村記念体育館の南にある
本丸橋にいたる。厩橋と本丸橋の間の川の北西側は広大な敷地で、佐賀藩馬術指南役・倉永家が代々住んでいたとの
こと。私が子供の頃も屋敷の面影が残っていて、大きな家と格好の良い松を植えた前庭があり多布施川から引き込んだ
小川が流れていた。しかし敷地の大半が戦前・戦時中は畑になっていたそうで、戦後は草ぼうぼうの荒地になっていて、
この敷地の西側にあった金武外科病院の子(私より少し上の先輩)や同じ町の子供たちとトンボを捕ったり、カバヤ文庫
で読んだトムソーヤごっこをして遊んでいた。
この辺の多布施川の東側・南側は民家や商家が密集してあり、川面にはタナジ(棚路)があっちこっちに見受けられた。
本丸橋にいたる途中に川の西側に県の建設会館があるが、この近くに小・中・高一緒だったT・N君の家があってよく
遊びに行っていた。
本丸橋は市村記念体育館の南側にあるが、当時橋の袂に藤川歯科があった。藩政時代の本丸はもちろん当時の赤松小の
辺にあったが、この橋がなぜ本丸橋といわれるようになったのか定かでない。ここで川は東へぐっと向きを変え、
二の丸橋に至る。
長くなりましたので、第2回の報告を終ります。次回は佐賀城跡に関する思い出と多布施川の終点までの記憶を、
最終回としてご披露いたします。お楽しみに。
つづく