多布施川の橋から学ぶ佐賀ん町の歴史(1) 鶴田征三
投稿者:新風児 投稿日:2011年10月21日(金)
鶴田さんの「多布施川」の連載は2005年8月、当時、私がまだベルギーに住んでいた時の事でとても郷愁を覚えた
エッセイでした。
緩やかな丘陵地帯のベルギー東部から海抜ほぼゼロメートルのフランドル地方には日本で見られるような山や小川は
ありませんので多布施川の生い立ちや役目、作者の思い出などを記されたこの作品は、私にとって特に興味深いものでした。
今ではそれほど特別ではないようなこの小川でも過去をひも解くと地元の多くの方々の清流を守ろうとする絶え間ない
努力のたまものだと言う事が分かります。
多布施川の橋から学ぶ佐賀ん町の歴史(1後篇) 鶴田征三
昭和橋
今のJR長崎本線多布施川鉄橋のすぐ北で多布施川にかかる橋ですが、西へ行けば鍋島駅、東へ行けば佐賀鉄工所・
佐賀駅北口に通ずる。
このすぐ下流で多布施川は二つに分かれます。南々東方向に本流の多布施川が流れ、南々西方向には天祐寺川が中折、
長瀬、本庄、西与賀あたりへ南下している。
多布施橋
多布施川本流に戻ると、この橋があり、緑小路(みどりくーじ)と多布施1・2丁目を分けている。南西に
佐賀工業高校が見える。
土手を降りた家には、大正の頃まで水車で精米したそうです。下れば新青木橋、その北西岸に青木井樋がある。
ここに昔の青木橋がかかっていたとのこと。
かもんどん橋(掃部殿橋・青木橋、新青木橋)
現多布施1・2・3丁目の境にあり、東に渡ってずんずん歩けば成章中に行く。元の青木橋は新青木橋の
20メーター上流にあった土橋で、掃部殿橋(かもんどん橋)ともいわれ、船通りが良かった。
しかし豪雨のたびに流されるので、民間の青木さんが石橋を作ったが、住民はみんなの橋・私の橋という意識が
強く常に清掃されていたとのこと。
昭和37年小生がやっと高校を卒業できる頃、コンクリート製の新青木橋ができた。
青木熊吉(1864〜1939)は佐賀本藩精錬方のガラス製造技師長。後、鍋島家から業務と工場を譲り受け、
「佐賀精練合資会社」を創設、ヒャートイビン(蝿取り瓶)はヒット商品であったという。
橋の南方右岸に佐賀藩精練方科学技術研究所の記念碑、川を東へ曲がり下ると佐賀藩多布施広儀反射炉跡の
記念碑が共に昭和60年に建立されました。
開運橋
頑丈な石橋、親柱も堂々としている。橋下の川は子供の天国、体が冷えたら欄干に寝そべり温まるとまた橋の上
から飛び込んで泳いだ。川干(かわひ)になるとハヤ・ドンコ・ウナギ・エビなどの魚採りで、近辺の小学生が
はしゃいでいたが、時々よそ様の私も泳ぎに行っていました。
橋の下流南岸には、ぜんじゃあ橋に至るまで石造り数段の棚路(タナジ)(または川路(カワジ)ともいう)が
残っている。タナジとは下流でもあちこちで見られましたが、川面まで歩いて降りられるように階段状になった
場所です。凝ったところは石段でできていました。
そこで洗い物をしたり、スイカを冷やしたりできましたが、鍋島時代はお茶の水の汲み場でもあったでしょう。
柳川市にも同じようなカワジ(タナジ)の跡が残っています。
冷酒を少し飲んで酔いが回ってきました。1回目はこれくらいで終わりにします。
ぜんじゃあ橋以降、2回目の楽しみのために宿題を出しておきます。
宿題
ポンポン井樋のあと、多布施川は分流しますが、その分かれたもう一方の川の名は何というでしょう。
今でも使われている名です。
つづく